リレーコラム20 長谷川麻弓 2019年06月

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リレーコラムのバトンを受け取って

長谷川 麻弓

コラムを書こうと思ってパソコンに向かうと、浮かんでくるのは予備校で講師をしていた頃のことばかり。集団精神療法学会のコラムには違うよなと思いつつ、他に浮かばないのでつらつらと書いてみることにします。

私は大学を卒業して10年ほど予備校の講師をしていた。対象は高校1年生から高卒生(いわゆる浪人生)で思春期青年期の若者たちだ。1クラスは5~6人から20人くらい。

大学受験の目的ははっきりしている。「試験に受かること」。試験に受かるためには合格点を取ればよいのだ。合格点を取るためにはどうすればよいのか、私はあらゆる大学の過去問を解きまくり難易度ごとに必要な知識と技術を研究した。教え方はかなりスパルタだったようで生徒からよく「鬼」とか「暴君」とか言われていた。熱心に教えているのに酷い言われようだ。確かに、「板書を書くのが早すぎて消すのも早すぎてノートが追いつかない」と苦情があると「ノートにじゃなく脳みそに書き込め!」とか無茶なことを言っていたし、授業中私の暴君ぶり?に切れてテキストをグシャグシャに丸めて床に叩きつけて出ていった男子もいた。今だったらクレームの嵐だ。それでもドロップアウトする生徒はほとんどなく、それなりの結果を出していたのは、やはり集団の中での私と生徒の間の、生徒同士の間の、あるいはクラス間の関係性があってのことだと思う。

教えることは面白かった。偏差値を上げることに夢中になっている時は、目標の大学に受かりさえすればたいていの悩みや問題は解消すると思っていたのだが、年々これでいいのかという疑問も膨れていった。そうして私は心理学を学ぶことに決めた。そしてやはり決まった期間の中で結果を出さなければならないことと1人1人にとって大切なことは何かを丁寧に考えることは両立し得ないと感じ、私は予備校から離れることになった。当時はそう思ったのだ。

その後、いろいろな縁もあり、グループと出会い集団精神療法を学び実践することになる。(肝心なところを1行で済ませてしまいました。)

期限や数字で見える結果というものはない。目的に向かって引っ張っていくのではなく、グループの在りようをそのままコンテインして寄り添う。今、ここで起こっていることは何か。痛みは何か。人が生きていく上で必要なこと、大切なことは何か。

「いいかお前ら!受かりたかったら私の言うことを聞け!」と乱暴なことを言っていた暴君な私からは想像もつかない葛藤の日々を重ね、そうしてようやく「先生っぽさ」が抜けてきたかなあと思った頃に、勤めていたデイケアがリワークに特化することになった。はじめはなんだか予備校みたいだなと皮肉に思った。

期限があること、結果が求められること、ほかの選択肢がないように思えること。

組織の中で求められる「適応すること」と、再発しないために必要だと思う「自分らしさを大切にすること」の矛盾に私自身も葛藤した。今でもその葛藤はなくなってはいないが、あれから20年、グループを体験しグループを実践してきた私は、今度は「両立し得ない」とは思わない。

リワークというグループの中で自分らしさを知る、そのために自分のことを知る、自分の中身がどうなっているのかを知る、そして気づいた自分の中身を否定しない、どんな自分も大切な自分自身なのだと少しづつでも、ほんの少しでも思えるようになる。自分のことを知るには、人の中での自分を知ることが必要だと思う。自分のことを知るには、人の中での他人(人)を知ることが必要だと思う。グループの中で自分の話をする、他人の話を聴く、傷つくこともある、救われることもある、そうやって情緒的な体験をする、人とつながった感覚をもつ、グループとつながった感覚をもつ、そのことが生きる糧となる、生きる糧はきっと生きるエネルギーになる。自分の生き方を自分で決める力になる。

私はそうしてグループを続けている。

 (集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2019年6月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム20「リレーコラムのバトンを受け取って」/長谷川麻弓

 

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