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2024年6月5日リレーコラム

6月のリレーコラムは夏休みとさせていただきます。リレーコラムを楽しみになさっておられた方々には大変申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

広報委員会

リレーコラム

ダンス・セラピー

鍛冶美幸

近年、若い人たちの間でダンスが人気である。軽快な音楽に合わせ歌い踊るK-POPは、韓国のみならず、日本やそのほかのアジアの国々、そして欧米でも人気を博している。彼らのダンスを真似して踊る若者も多く、大学ではダンス・サークルにたくさんの学生が集まっている。さらには、義務教育のなかにもダンスが取り入れられ、子どもたちもダンスを楽しんでいる。なぜって、踊ることは無条件で楽しく、言葉を超えた人と人の繋がりをはぐくむからだろう。では少し年長の、たとえば中高年の方々はどうだろうか。ダンスと聞くと、気恥ずかしさを感じる人もいるかもしれない。しかし、小学校で踊ったマイム・マイムや、地域で催される盆踊りの楽しさを思い出していただければ、やはり踊ることは楽しい、と思ってもらえるのではないだろうか。 ただし、踊ることは楽しいだけではない。激しいダンスでは、苛立ちや緊張を発散できるかもしれない。寂しいとき、悲しいときに、誰かと一緒にリズムに乗って静かに体を揺らすと、自然と心が軽くなるかもしれない。ダンスは思考に至る前の体験と私たちの心を結び付ける、特別な力を持つ芸術活動なのである。それは精神分析家クリストファー・ボラスが、 「すべての人間関係で同様に、われわれは人に対する感覚を身体的に記録するのである。彼らの影響をわれわれは心身で『運び』、これが身体的知識を構成するが、これもまた思考されないのである。このタイプの知識について精神分析が多くのことを学べるのは、踊り手が未思考の身体的知識を通じて表現しているモダンダンスからだろうと、私は確信している。そして音楽表現は未思考の知と本来の思考の中間に位置づけられるかもしれない。」(Bollas,C., 1987)と述べているとおりである。 ダンス・セラピーは、文字通りダンスを介した心理療法的アプローチであり、1940年代にアメリカで生まれた。創始者のマリアン・チェイスはモダン・ダンスの指導者であり、振付家でもあった。彼女が指導していたダンスのクラスには、上達や人前での発表を目的とするわけではないのに、継続的にレッスンに参加する生徒たちがいた。彼らは、チェイスの指導で踊ることを楽しみ、そこに自己表現の機会を見出していたのである。 チェイスの編み出した方法は、とてもユニークだった。お決まりのステップや型を教えるのではなく、参加者の自然で自発的な身体の動きをリズムに乗せて、即興的なダンスとして構造化していったのだ。それは踊り手の感情表現を尊重しながら自然に展開し、踊り手の心の変化を促すものであった。この方法をもとに、ダンスを通した心理療法的アプローチであるダンス・セラピーが誕生した。 現在ダンス・セラピーは、アメリカやヨーロッパ、アジアなど、世界の様々な場所で実施されている。日本でも、精神科の医療機関や老人施設、発達障碍を持つ子供たちの療育の場などで臨床実践が行われている。グループ療法として、また個人療法としても行われ、そこでは参加者の自発的で自由な身体表現を素材にダンスが振り付けられていくため、セラピストが対象者のニーズや病理を理解していれば、心身の機能水準によらず、誰でも体験することが可能である。具体的には、その場の雰囲気に合った音楽に合わせ、セラピストが参加者の自然な身体の動きをもとに振り付けし、それを通して感情表現や感情体験ができるよう促す。また動作の雰囲気を捉えた「イメージ」が言語化され、そのプロセスを探索するのを助ける。風のように揺れたり、木の方に伸び上がったり・・・・。年齢や性別、疾患の有無、ダンス経験の多寡にかかわらず、心を込め、熱中してダンスをする様子はとても美しい。ただし、これを見たことがない人に説明するのはとても難しいものである。 ダンスこそ、百聞は一見に如かず。コラムをお読みいただいている皆さん、ぜひダンス・セラピーをご体験ください。コロナ禍が収束した今、国内でも少しずつダンス・セラピーのワークショップ等の開催が増えてきています。 今は亡きロック・スターのデヴィッド・ボウイも、“Let’s Dance!”と歌っていたではありませんか! Bolla, C. (1987) The shadow of the object. Free Association Books Ltd. , London. 舘直彦監訳 (2009) 対象の影. 岩崎学術出版社, 東京

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.13 2024年5月

※PDFファイルで読む →ダンス・セラピー

リレーコラム

音楽療法

高田由利子

芸術(art)という語彙は実に古くから存在し,「藝」は「わざ」や「才能」の意味をもつことから、芸術(art)とは特別な能力によって或る効果を実現する仕事とされていました (佐々木, 2013)。芸術家が自身を表現するために「わざ」を用いて作品を創造し、演奏するとき、芸術(art)を扱うセラピスト達は「わざ」をどのように用いるのでしょうか?まずは、音楽療法の歴史的な側面に着目してみたいと思います。旧約聖書のサムエル記には、ユダヤの王サウルの心の病を羊飼いのダビデが竪琴を演奏して癒したことが記されています。また、ギリシャの哲学者プラトンは音楽を“魂の薬”と言及するなど、音楽が人々の健康に何らかの概念をもって寄与されていたことを知ることができます(日野原, 2001)。芸術は、人々の精神によい効果をもたらす可能性のある媒体であるということが、紀元前から着目されていたことは大変に興味深いことです。音楽療法が現在のような学問体系になったのは,欧米での第2次世界大戦後の傷病兵の治療として、一回の鑑賞だけでは心理的な外傷(PTSD)の根治治療に至らなかったことが契機と言われています。日本では1980年代後半,医師達や教育家、音楽家、心理学者などが音楽療法を普及させるためにそれぞれの領域で臨床を始め、多数の音楽療法が誕生しました。次に、音楽療法の臨床的な側面に着目してみたいと思います。

まずは、音楽療法士は臨床場面において何をする人なのかについて、音楽療法の定義から考えてみたいと思います。アメリカの音楽療法の発展に貢献し続け、長年に亘り、ペンシルバニア州にあるテンプル大学で教鞭をとられたブルーシャ博士は、「音楽療法とは、クライエントが健康を改善、回復、維持するのを援助するために、音楽とそのあらゆる側面−身体的、感情的、知的、社会的、美的、そして霊的−を療法士が用いる相互人間関係的プロセスである」(ブルーシャ, 2001)と定義しています。定義によると、療法士はクライエントの健康の援助をする人であるということ、また、療法士は音楽のもつ多様な側面を理解し、クライエントのニーズに合わせて、その場に応じて使い分けていくこと、さらに、療法士がクライエントに一方的に介入するわけではなく、“相互に関わり合う”関係であり、その関係性には “プロセス”、つまり、継続性を伴うということが、芸術(art)を療法的に用いるためにも大切な点であると思います。

私自身は人間性心理学の理論を背景とし、クライエントがセッション室でふるまう“あるがまま”の姿を肯定し受容するといった療法的観点に基づいて臨床をしています。そのため、クライエントの瞬時の心の動きを察知し、その気持ちに合うように即興的に音楽を奏でるといった手法を取ります。これは個人や集団に関わらず、共通した手法となってきます。具体的には、集団音楽療法参加者(以下、メンバー)の一人一人が興味を示す楽器や音を一緒に探索します。その後、興味を示した楽器を介して音楽によるやり取りが始まるのですが、メンバーの一人一人が主体的に表現できるようにサポートしていきます。メンバーの発する音(声)が何よりも尊い瞬間ですので、その音(声)を瞬時に受け取り応えていくためにも、全身全霊をこめてメンバーの音(声)を聴きます。セッションも回数を経ると、徐々にお互いの心理的距離も安定し、集団力動もポジティブな方向に向かうことで、音楽的なやり取りはさらに深みを帯びて発展していきます。メンバー同士が、楽器に触りながら何となく音を出していくといった、形なく始まったやり取りが、徐々に受け答えへのような形に変容したり、メンバー同士が音を重ねることで生まれるハーモニーにうっとりしたり、あるいは音楽のダイナミクスによって感情を思い切り発散したりと、療法の中で生まれる関係性(絆)が音楽を媒体として強固な性質を帯びてきます。音楽による相互作用そのものが療法的な意味をもつことからも、ここでのセラピストの役割として重要なことは、メンバーの音(声)にいかに耳を傾けるかということと、それらをセラピスト自身の中で理解したり解釈し、響かせ続けることだと思います。ここでいう音(声)とは、メンバーの言葉にならない思い、あるいは、伝えることが難しいさまざまな感情など、顕在化の難しい音(声)も含まれます。

冒頭で述べた療法士の「わざ」に話を戻しますが、音楽療法の領域に限らず、我々セラピストは、クライエントと芸術(art)を媒体として向き合っています。すなわち、芸術(art)を介した相互関係のプロセスそのものが創造的なアプローチであると言えるでしょう。そこで、我々にとっての「わざ」とは、“表現する行為者”としての芸術的な視点をもつことと、“相互プロセスにおいて変容していく自己の洞察”としての臨床的な視点をもつことではないかと考えます。これらの視点を十分に備えることは、よりクライエント中心のセッションを繰り広げることを可能にすると思います。

引用文献

・Bruscia, K.E.(1998). Defining music therapy. Barcelona Publishers, Gilsum, NH.(生野里花訳:音楽療法を定義する.東海大学出版会,東京,2001.)

・日野原重明(監) (1998). 標準音楽療法入門〈上〉理論編. 東京, 春秋社

・佐々木健一(2013). 美学辞典.  東京, 東京大学出版会

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.12 2024年4月

※PDFファイルで読む →音楽療法

2024年3月3日リレーコラム

ドラマセラピー

尾上 明代

ドラマセラピーはドラマ・演劇のプロセスを意図的に用いて、自他の理解を深め、視点、行動、社会関係の変化を促し、感情的・身体的な統合を目指す体験的なアプローチです。ドラマセラピーに初めて触れる方も含めた皆様に、限られた紙面でお伝えするために、どの側面について執筆させていただくか、選択に悩みましたが、結局「自分でない人を演じる」という点をとりあげることにしました。「演劇」は、ドラマセラピーの5つのSources(出典分野)の一つであり(エムナー 2007)、まさに他者になる、他者の人生を生きるということは、ドラマセラピーにおける重要な要素の一つです。

人は誰でも、違う人生を生きてみたい、別の自分になってみたいと一度ならず思うことがあるのではないでしょうか。あなたはいかがですか?もちろん普段の私たちは、場に合わせて違う自分を生きて(つまりさまざまな役を演じて)います。しかし、一回の「人生」の中で「違う人」になって生きることはなかなか難しいと思います。全く違う職業につくとか、全く違う人と何度か結婚するとか、全く違う文化や環境の外国に移住するなど、「大きく違う人生」を選択することもあり得ますが、それとて基本的な「自分」は一貫しています。それに比べて「全く違う人」になるというのは、演劇やドラマでこそ可能になることです。(友人や家族が知らない別の顔をもつ人もいるとは思いますが・・・)俳優業の人以外は、上記の体験はなかなか得られないでしょう。

それが得られるものの一つがドラマセラピーです。しかもセラピーであるゆえに、単なる「体験」に終わらず、他者になった自分をグループの中でさまざまな角度からリフレクトするようセラピストから導かれるため、自分自身と他者(グループメンバーだけでなく、演じた「役」)への理解が深まります。ドラマセラピストたちは、この「自分ではない人を演じる」ことの意味・意義をオスカー・ワイルドのことばを使って説明しています。

「人は自分自身として語るとき最もその人自身から遠ざかっている。仮面を与えよ。そうすれば、人は真実を語るであろう。」

仮面(=役)を通して、そして架空だからこそ、かえって現実の自分が表現されて内面の理解が深まる、というパラドキシカルな現象が起きるのです。エムナーも「演劇における役は、人を保護すると同時に解放する」と説明しています。ほんの一例を挙げれば、誰かをいじめたい感情をもつ人が、シンデレラの継母役や、浦島太郎の亀をいじめる子ども役を演じることで、自分の抱える感情を開示したり行動化することなしに、それを解放することができるのです。抑圧されたり、無意識に抱いている感情を解放したり制御したりすることはセラピーの最も重要な側面の一つです。実際、今まで本当に多くの参加者が、「他者の役」を使って「ドラマ的現実」の中で、より安全に自己表現を果たし、洞察を深めてきました。しかも、シンデレラや浦島太郎をグループで演じ合う楽しさも同時についてきます。

ドラマセラピーでは、セッションを重ねて(例えばエムナーによれば、治療セッションの基本回数は1クール20回)プロセスを漸次的に発展・深化させていきます。その後半で、「現実」を題材に使ったり、「自分自身」の役を演じてもらうことももちろんあります。しかし長年実践してきた私が、特にドラマセラピーの特徴としてあげるとすれば、1. 架空の設定で、2. 自分ではない役を演じること、加えて3. (本稿では解説する字数の余裕はありませんが)良質なユーモアと楽しさ・笑いの共有の3つです。これらが個々のクライエントのみならず、グループ全体の変容と成長の鍵だと強く感じています。芸術活動を研究プロセスに使うABR(Arts-Based Research)を実践するマクニフ(2018)は、フィクションは「体験や現実を薄めたり損なったりするのではなく、かえってそれらを最適の仕方で豊かに高めてくれる」と述べています。

ナラティブ・アプローチを専門の一つとする森岡(2024)は、「仮構の世界は現実の世界よりも強い存在感をもっている」という和辻哲郎のことばを引き、仮構がリアル感を作り出し、その世界において人は意味を作り出すと述べています。またヴィゴツキーにも言及しながら「『自分でないもの』と今の私を関係づけるときに、人は成長変化する」と説明しており、私がこれまでドラマセラピーを説明する際に使ってきた表現と見事に合致しています。また「自分ではないものと今の私を関係づける」とは、とりもなおさずドラマでメタファーを使うことと同義であると考えられます。メタファーを使うと二つの別々の体験領域(現実の役と架空のドラマの役)を関連づけることができ、これらが結びつけられ統合されると、そこに新しい意味付けへの道ができてセラピューティックな創造が起きます(尾上, 2021)。

皆様、もし機会があれば体験なさってください。演じることへの不安(がある場合は)をとりのぞき、リラックスした状態で楽しく取り組めるように漸進的に進めていきます。(臨床現場だけではなく、一般参加者のワークショップの場合でも同じです。)このこと自体がドラマセラピストの専門的な仕事の一部です。是非「違う自分」を楽しんでいただければと思います。

文献/資料

エムナー. R.(2007).ドラマセラピーのプロセス・技法・上演-演じることから現実へ. 尾上明代訳.北大路書房

McNiff, S. (2018). Philosophical and practical foundations of artistic inquiry. Creating paradigms, methods, and presentations based in art. In Leavy, P. (Ed), Handbook of Arts-Based Research. The Guilford Press.

森岡正芳(2024). ナラティブを語る.立命館大学ものづくり質的研究センター 第22回研究会講義. 2024年1月23日

尾上明代(2021).ドラマセラピーの実践・研究・手法(5)-ドラマセラピーにおけるシンボル・メタファーの役割と意義- 対人援助学マガジン第45号 pp79-84.

https://www.humanservices.jp/wp/wp-content/uploads/magazine/vol45/15.pdf

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.11 2024年3月

※PDFファイルで読む →ドラマセラピー

リレーコラム

アートセラピーの魅力

斎藤 佐智子

私は読書感想文で原稿用紙2~3枚の文章を書くのに苦労するタイプだった。まず、目の前の文章から何を感じたのか自問するところから始まり、その感じたことを誰かに伝わるような言葉に変換するということに長い時間を要した。そして、なんとか文章を完成させたとしても、私は、どこかもの足りないその文章と自分の文才のなさにがっかりすることが多かった。そんな私がリレーコラムを書くことになった。広報委員から提案していただいた「アートセラピーの面白さや魅力が伝わる内容」を、果たして文章で伝えることができるのだろうか。

 私がアートセラピーを学んだ場所には、アートセラピーの他に、ミュージックセラピーや、ダンスセラピーの専攻があり、それら3領域の学生たちが一同に介するグループがたびたび行われていた。その面々は、プロダンサーとして活躍してきた人や、美術商、高校大学と順当に進んできた人に、子育てにひと段落ついた主婦までさまざまな背景を持っていた。つまり、彼らのクリエイティブ・アーツとの距離感はさまざまだった。クリエイティブ・アーツを学ぶ過程では、いかなる背景を持つ人も自ら絵を描き、音楽を奏で、ダンスをし、決して得意とは言えない領域にもそれぞれ足を踏み入れなければならなかった。身体の動きで表現をすることに気恥ずかしさを覚えていた私は、恥ずかしさ以外に何を感じたかもよくわからないまま体験を終了したし、即興で美しい音楽を奏でるミュージシャンたちのスキルの高さに圧倒されもした。

 アートセラピーを行う際に、「うまい下手ではない」「自由に」と伝えられることは多い。しかし、日本の臨床場面では、絵が心理査定の一つとして用いられることが多く、参加者も、臨床家自身も、自分の絵が他者からどう見られるかを多かれ少なかれ意識することになる。私がかつて気恥ずかしさを抱きながらぎこちない動きをしたように、視覚的な作品を作ることに抵抗があり、自由に表現することに難しさを感じる人は少なくないだろう。他の人が素晴らしい作品を制作するのを見て、自分にはできないと諦める気持ちも出てくるかもしれない。

 例えば、アートセラピーのグループはこんな風に進む。まず、今の自分の気持ちに耳を澄ませてみる。今感じていることをどうやって絵や作品にしていけばよいのだろう。途方に暮れる。見回すと既に何か思いついたらしい人が作業を開始していて、まだ作業にとりかかってもいない自分に焦りを感じる。逆に、他の人からヒントを得て自分にも何かできるかもしれないと思い直したりもする。手頃な画材を手に取り自分なりに試行錯誤しているといつしか夢中になるが、思うような「アート」ができずがっかりすることもある。そうして出来上がった作品を眺めながらグループで話していると、いとも簡単に制作をしているように見えた人も思い悩みながら制作していたことを知る。また、なんとも中途半端だと思っていた自分の作品から何かを感じ取ってくれる人もいて、少しほっとしたりもする。作品について話しているうちに、それぞれがその作品に至った思いに触れ、いつしか「うまい下手」ではない話題でやり取りをしていることに気づく。

 私がかつて読書感想文で経験した難しさは、自分のイメージを形にして表現する際にも似たような形で生じる。最初は先が見えないが、ある種の諦めにより作業を進めていると何かの形ができてくる。運が良いと、その際に葛藤や、歯がゆさや、悔しさや、楽しさや、安堵などさまざまな感情が一度に味わえる。さらに、アートの場合、作品を他の人と同じように眺めることができる。そうすると客観的にとらえられ、「自分はこんなことを感じていたのかもしれない」などという気づきとなることがある。普段、使い慣れている言語では予期せぬことはあまり起きないかもしれないが、馴染みの薄い媒体では、ときに新鮮な動きとして表れることもある。  そろそろ原稿用紙で言うと5枚目に突入した頃だろう。あの頃3枚の原稿用紙を前に途方に暮れていた私も、その後、とにかく書き始めればいつか書き終わる時がくるということを学び、以前よりもずっと長い文章が書けるようになった。なんなく書けるのかと言われたらそうではないし、いまだに入稿間近になってこれでよいのだろうかと不安になるが、書くことへの抵抗感は随分減ったように思う。それは、クリエイティブ・アーツセラピーの体験と似ている。最初は自分の創造性を引き出すことに苦戦するかもしれない。しかし、やってみないことにはそこにある面白さに出会えないのである。やはり私の文章では面白さや魅力は伝えきれない。体験したことがない人はまず1度、体験したことのある人はさらに何度か、体験してみてほしい。何回目でも、その都度新しい発見があるはず。

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.10 2024年2月

※PDFファイルで読む →アートセラピーの魅力

リレーコラム

メンタライジングとグループのエッセンス

西村馨

メンタライジングに関心を持たれる理由は、大まかに言って3種類あるように感じます。

一つは、境界性パーソナリティ症の治療に関心があるため、あるいは、愛着とメンタライジングに課題を持つ対象(例えば、虐待を受けた子どもやその家族)に関心を持っているため、あるいは、グループセラピーで起こっていることを説明する理論を模索しているため。これをお読みの方は、いかがでしょうか?

私は、二番目と三番目の中間あたりの理由で勉強を始めました。当時、子どものグループセラピーをやっていたのですが、子どもたちがよくなっていく理由をうまく説明できませんでした。スタッフが何か特別な介入をしているわけではないのだけれど、生き生きと遊び、仲間同士の関係性を深め、そこで自分の何かを表現しているようでした。しかしどうしてそれが生じるのか、どうしていくことがよいのか迷っていました。

そのようなとき、たまたま参加したアメリカ集団精神療法学会の大会で、児童・思春期のMBTの指導者、ノルカ・マルバーグによる思春期のMBTグループと出会いました。アクティビティを利用して体験を活性化したり、行動を言語的、非言語的になぞりながら体験を深める過程は、まるで自分が実践していることを説明してもらえたようでした。そう、すでにやっていることの意味をコトバにしたもの。それがメンタライジングとの出会いでした。

ここでは、子どもという文脈を少し離れて、メンタライジング全般の話をしてみましょう。

集団精神療法学会の体験グループに何度か出るうちに、いくつかの価値になじみ、それが当然だと思えるようになってきます。たとえば、アドバイスを与えるよりことよりも、その人たちの気持ちとか、行動の背後にある様々な事柄に思いをはせたり、自分の感情を率直に言うことに価値を置きます。これが、まさにメンタライジングの過程なのです。

体験グループは時間が来たら終わる。バウンダリーの感覚も大事ですが、結論を出さないこと、もう少し正確に言うと、行動目標を決めることなく、感情を出し合って、交流すること自体に意味があるという価値が共有されています。グループは、メンタライジングを実現する場だというわけです(臨床実践では、それを実現するための構造つくりや、問題行動を定式化して目標を共有しますが)。

他にも、一つのできことや個人の体験について、一つの見方だけを正解とみなすのではなく、複数の見方が許されること、一人一人の意見が尊重され、対立することや否定的な感情の表現が歓迎されること、これらはすべて良いメンタライジングの特徴なのです。

逆に、自分や誰かの発言がすっきりしなくてモヤモヤしたり、自分や誰かの、とても固定的な、確信的な考え(たいていの場合、疑いや被害感に満ちている)に揺さぶられたり、何かを「する」ことにとらわれ、感情が省みられなくなるときがあります。そのような心の状態を非メンタライジングモードと呼びますが、グループでは、誰かがそれに気づいて、プロセスを止め、ふりかえって検討することが提案されます。そこで、感じていたことが掘り起こされたり、率直なやり取りが修復したりします。途絶していたメンタライジングが回復された、ということです。

要するに、メンタライジングとは、すでに私たちがやっていることなのです。実際、あらゆる精神療法の中核的過程を特徴づけるものだといわれる一方、MBTは最も新奇性のない療法だと(謙虚に、自嘲的に)呼ぶジョン・アレン(参考文献参照)のような臨床家もいます。

しかし、MBTやメンタライジングの理論や方法論を学ぶことは、それらを踏まえた、治療構造論、治療者の姿勢、技法論を体系的に学ぶことであり、少なくとも、自分がすでにやっている臨床に別の角度から光をあてたり、新たなヒントを与えるでしょう。さらに、最初に述べた、境界性パーソナリティ症や愛着に課題を持つさまざまな人々(発達障害を含む!)のための治療論を学ぶ機会となるでしょう。実際、メンタライジングという概念は、愛着、トラウマ、神経発達症といった問題と絡み合わせられながら、さまざまな領域で語られるようになっています。MBTの理論も、力動論から始まり、愛着理論、システム論、認知行動理論、さらには脳神経科学といった現代科学のさまざまな知見をクロスオーバーさせて発展してきています。最初は圧倒されるかもしれませんが、やがて様々なことがつながって見えてきたりもします。

是非学んでみてください。

参考文献(グループについて触れているもの)

アレン他、狩野監修(2014)メンタライジングの理論と臨床 北大路書房

ベイトマン他、池田監訳(2019)メンタライゼーション実践ガイド 岩崎学術出版社

西村馨編著(2022)実践・子どもと親のメンタライジング臨床 岩崎学術出版社

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.09 2024年1月

※PDFファイルで読む →メンタライジングとグループのエッセンス

リレーコラム

現場での体験談 ―児童養護施設での思春期メンタライジング・アプローチ グループ

家崎 咲代

 

現場での体験談をお話する前に、今なぜメンタライゼーションに基づく治療(以下MBT)が注目されるようになったのか、私のような児童養護施設で被虐待児の心理治療に従事する者が、児童福祉現場にMBTを取り入れようとしたのか、といったところからお話していきたいと思います。

大橋良枝さんの先のコラムにあったように、MBTは、境界性パーソナリティ障害の理解や治療として開発されたものでした。その理論では、人であれば誰もが持っているであろうメンタライジング能力が不十分、あるいはその発達が制止している状態が、境界性パーソナリティ障害の病理の中心であると考えられています。(Bateman & Fonagy,2004)

このような難しい患者(あるいはクライエント)の予備軍たちが、児童福祉現場に多く存在すると私は日々、感じていました。重篤な虐待やネグレクトを受けた子どもたちは、永久的に児童福祉で治療が得られることはなく、18歳(※法律上、年齢は撤廃されましたが、現状は難しい)という期限がきたら治療は終了になり、成人福祉に繋がらない場合は、治療の継続の多くが絶たれてしまいます。

実際に施設入所期間中の施設心理士による被虐待児の個人心理療法だけでは、時間がかかるうえに、成果も乏しく、限界を感じていました。また、子どもたちを養育するケアワーカーが、虐待を受けた子どもたちと関わるなかで二次的外傷性ストレスを抱えることも多く、心理支援は難航していました。そこで、子ども達が児童養護施設で暮らしている間に、施設全体が治療体となって、包括的にケアできるものはないだろうかと探していました。そのときMBTに出会ったのです。

MBTでは、海外において集団療法と個人療法を同時に行うのが主流ということを知り、本題である中学生・高校生を中心にMBTを汎用した形(メンタライジング アプローチ)のグループをやってみようと思いました。

しかし、児童養護施設で集団療法を行う土壌を作ることは簡単ではなく、全国的にも集団療法を子どもの施設で行っている所は少ないと思われます。そのような不安や苦労を経て、実際には2021年から手探りで実施しました。

実際に始めてみると、施設の子ども達は、なにを尋ねても「わからない」「知らない」「どうでもいい」といった答えが多く、対話にならないところが最初、何より難しかったです。

この主体性のなさ、自明性が育ちにくいという様子から、MBTの中核概念の1つである『行動主体自己(Bateman & Fonagy,2004,2006)』を育てていくことを最終治療目的にするのだという強い思いが沸いてきました。

そこからは、プレイフルなスタイルを取り入れ、自分が好きなことは何か、自分が今まで影響を受けたもの(人)は何かなどのテーマを設定し投げかけてのエクササイズを楽しい雰囲気の中に組み入れながら、その子の考えや感情を聞く=自己メンタライジングの促進を促すことをセッションの中で実践していました。

また、メンバーの話を聞いて、どう思ったのか、その人の立場に立っての気持ちや考え(他者メンタライジング)をシェアするといったことなども、同時に聞くようにしていました。

最初から、上手くいったわけではないですが、そういったことを意識してやっていると、なんとなく子ども達も、問いかけが来ることを予測していて、子ども同士で「〇〇の気持ちを考えてみよう!」などと、ファシリテーターの真似をするといったことが出てきました。

今、振り返るとこの一連の介入や流れ(ここでは一部の紹介)というものは、すでに子どものグループでは、普通に行われていたことでもあると気づきました。MBTが「素朴で古い療法である(Jon G.Allen,2013)」と言われる所以でもあり、傷ついた子どもたちだからこそ、そういったあたり前のようなことをあえて概念化し、丁寧に行うことの重要性を説いたところがMBTの特徴のように思えました。「なんか、こんな楽しく普通にやっていることが、グループ療法なのだろうか」と子どもたちに思わせることこそ、安定な愛着関係を自然に提供できる可能性があるのではないかと感じました。

そのような空間の中で、徐々にグループが安全な場所であり、居場所として機能し出すと、子ども達は、社会で傷ついたり、失敗したりしても、自分にはグループがあり、自分を認めてくれる仲間がいると言い、グループが安全基地になっていました。それが、次の挑戦に繋がったり、未来の自分を想像して自分を信じ、進めて行く原動力になっていると見ていて感じました。

ここでの子ども達は、「どうせ自分の人生は、最悪で変わるはずがない」と思いがちでしたが、確かに施設に暮らす境遇は変えようのない事実です。どうして最悪と思うのか、どうして変わらないと思っているのか、変わるための別の方法はないのか?と考えていくためにはメンタライジング能力が必要です。それでも、<どうして変わらないと思っているのか?>と尋ねたところで「わからない」とか、「変わらないと思うから変わらない」などという答えが大半でした。ストレスフルな問いに対しては、メンタライズが停止して、考えようとしない心のモード(プリテンドモード)に陥っていたり、「変わるはずがない」と決めつけている心のモード(心的等価モード)に陥ってしまいます。そこで、ファシリテーターが別の視点や方法を探すように促し、メンタライジングが再稼働するよう助けていく介入を丁寧に繰り返すことが必要でした。一緒に考えていく関係性の中で、子どもたちの中に認識的信頼が芽生え、主体性が育まれ、変化している自分に気づくと子どもたちは自信がついていきました。

そして、他者にもメンタライジングができるようになると、メンタライジングしたことで、また誰かがメンタライジングしていくといったような汎化が生まれる循環を感じました。

子どもたちが、最終的には自分にとって苦しい難しい局面を「どうしたいのか」をメンタライジングして、主体的に生きていくことの基礎ができたらと考えています。

最後になりますが、もしこの機会にMBTに興味を持たれる方がいらっしゃれば、とても嬉しく思います。次の執筆者は、私に「MBT」と、何よりも「グループ」の面白さを教えて下さった方です。さらにMBTの魅力を紹介して頂けるだろうと、私自身、楽しみにしています。ありがとうございました。

 

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.08 2023年12月

※PDFファイルで読む →現場での体験談 ―児童養護施設での思春期メンタライジング・アプローチ グループ

2023年11月30日リレーコラム

メンタライゼーションとは

大橋 良枝

最近、よくメンタライゼーションという言葉を聞くようになったなあ、と思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。JAGPは他学会に比べても、学術大会や教育研修等でメンタライゼーションが積極的に取り上げられている印象です。これにはもちろん、日本のメンタライジング臨床を牽引してきた白波瀬丈一郎さん、西村馨さん、渡部京太さんたちがJAGPでもご活躍なさっていることも大きいと思いますが、もう一つ私は、JAGPが相田信男さんの「病棟が心理学的になった」の言葉に共鳴する専門家集団であるということも関連するんじゃないかなと思っています。何となく、相性の良さのようなものをひしひしと感じているのです。

そして、今回こうしてメンタライゼーションのことを取り上げていただけるということですから、すでにあちこちに書かれているメンタライゼーションの説明だけだと、ちょっと面白くないので、JAGPとメンタライゼーションの接点を考えながら書いてみようと意気込んでいるところです。

さて、お題である、「メンタライゼーションとは」に入っていきます(ここはあちこちに書いてある説明に従います)。よく示されている定義は「個人が、自分や他者の行為を、個人的な欲望やニーズ、感情、信念、理由といった志向的精神状態に基づく意味のあるものとして、目次的かつ明示的に解釈する精神過程」が代表的です。志向的精神状態は難しい言葉ですが、端的に言えば行動の動機の説明になり得る心の状態と言いましょうか。この定義そのものをもっと簡単に言うと、開発者の1人であるPeter Fonagyの要約によれば、「holding mind in mind(こころでこころを思うこと)」と説明されます。これは、holding hand in hand(手と手を取り合う)という慣用句から来ており、こころとこころを寄り添わせる、というニュアンスだろうと考えられます(池田, 2021)。

元々は、Mentalization-based therapy(以下,MBT)という、境界性パーソナリティ症(BPD)の治療のための理論として始まりました。BPDの精神病理を、愛着発達上の課題と、それに基づく自己および他者、とりわけ重要な他者の行為の背景にある志向的精神状態を妥当な形で解釈することに伴う歪み(メンタライジングの歪み)として理論的に整理し、そのメンタライジングの歪みをターゲットとして治療しようとするものです。

MBTはその方法・基準がかなり明確に定義されておりますが、それだけに実際MBTを現場で行おうとするのはなかなか困難な部分があります。それでもこれらの理論から得られる様々な知見は私たちの日々の臨床に大変有用なものです。メンタライジングの視点と介入を中心に据える、MBT以外のサイコセラピー・アプローチ等は、メンタライジング・アプローチと呼ばれます。またMBT以外では、メンタライゼーションという言葉はほとんど使われておらず、Mentalizing「メンタライジング」と動詞(動いているもの)として呼ぶことが多くなっていることも、ここに付け加えておきます。

さて、ここからJAGPでの紹介文を意識して書いてみたいと思います。まず、MBTは開発当初、研究・治療プログラムの中で、個人とグループの組み合わせとして開発されたということがあります(Bateman & Fonagy, 2004)。これは、メンタライジング理論が精神病理を対人関係上の問題あるいは社会化の問題と強く関連付けて理解していることと関係あると思います。今回は紙幅も関連してMBT-Groupについては紹介いたしませんが、これもまたシステマティックに理論化されたものなのでご関心のある方は是非文献をご覧ください。

私が今回最も強調したいのはここからです。先ほどMBTは精神病理を対人関係上の問題あるいは社会化の問題と強く関連付けて理解していると書きました。MBTやメンタライジング・アプローチの発展を牽引している中心的人物の1人であるFonagyの関心は徐々に社会の問題に向けられていきます。この10月に参加したオンラインセミナーは複雑性PTSDが主題となっていましたが、彼はトラウマを孤独の問題と明確に関連させています。また重要な治療理論として強調されている、「認識的信頼」つまり他者から心に関心を向けられることを通じて育まれる、対人、社会への開放性を表す概念は、孤独に陥ることなく、社会文化的環境から利益を得られるようになることの重要性が強調されます。さらに、新たに発展してきているAMBIT(Adaptive mentalization based integrative treatmentメンタライゼーションに基づく適応的統合治療)という手法は、要支援者/クライアントに関わる多職種の支援者たちが分断し孤立することを防ぐシステムを提示しています。このように、現在メンタライジング臨床の中核的関心は、面接室でのクライアントの抱える社会的孤立や孤独の問題から、精神健康のリスクファクターとしての孤独の問題、ひいては地域における支援者間の分断と孤立孤独の問題までターゲットにしていることからも分かるように、孤独の問題にあると思うのです。そして、これはこの学会の中で私たちが大事だと共有できるものとして言葉になっている「(集団が)心理学的になること」と関連あると感じるのです。孤独は、心理学的な環境が得られなかったこと、得られなくなることによって起きる苦痛に満ちた状態であり、そうではない場を作るのだというポリシーが共有し得ると言いますか・・。

さて、前半はさておき、後半はかなり私にとってのメンタライゼーション、メンタライジング臨床かもしれません。ただJAGPへの所属感を思いながら書き出すと、こんな紹介になるかな、というところです。それでも、こうした文章の中に関心を覚え、もっと知りたいなと思ってくれる方がいらっしゃれば、最高だな!と思います。

この概論的な文章に続き、続く執筆者は、更にワクワクするものを書いてくれることでしょう。そちらに期待をつないで筆をおこうと思います。

 

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.07 2023年11月

※PDFファイルで読む →メンタライゼーションとは

リレーコラム

SSTに興味がある方や実践した事がない方へのメッセージ

羽田 舞子

今回、広報委員の方から「SSTの面白さや魅力が伝わる内容を、楽しく自由にお書きください」とのご連絡を頂いた。リレーコラムの『サイコドラマの魅力~私の場合』の中では「お書きください!」だったとのこと。「!」ひと文字の違いが、私の中にどう影響を与えたかはわからないが、私がSSTについて思っていることを少しだけ書かせていただきたいと思う。

SSTを始めた頃、私は常に緊張していた。プログラムの事前には「こう言われたらどうしよう」、途中では「この場合はどういう言葉を言うべきだっけ?」「次のリーダーの動きは何だっけ?」、終了後は「あれで合っていたのだろうか?」「あの言い方は駄目だったのではないか?」。多くの「すべきこと」や「いわなくてはいけないこと」に囚われて緊張していた。SST初級研修で手に入れた台本を頼りに、それに沿った流れにグループを動かそうと必死だった。なんとなくSSTは、やらなくてはいけないことが決まっていて難しいもの、と思い、時に苦痛すら感じながら続けていた時期もある。しかし、少しずつは私の中で変化があったのだと思う。

もし今「SSTを始めたいが難しそう」と誰かに言われたら、「難しいことはあるかもしれないけれど、楽しく自由なもの」と答えるだろう。希望する状態に向けて、やりとりをしながらどうしたらよいかを皆で考えていくのは、楽しく自由で創造的な時間だと思う。そう思えるようになったのは、私がSSTの技術が向上したからでも知識が増えたからでも無く、SSTは参加者とのやりとりで進んでいく、という基本的なことがようやくわかるようになったからだと思う。

あるセッションが終わった後、テーマを出した参加者が、終了後に「話している中で自分の本当の気持ちに気づいた。みんな共感してくれて、自分だけが悩んでいるのでは無いこともわかった」と感想を言ったのを聞いて、私は叱られたような気持ちになった。どうして叱られた気持ちになったのか気になって考えると、「ちゃんと進めなくてはいけない」と気にして自分とは全く別な時間が、テーマを出した方やグループには流れていたことが、とてもショックであったのだ。

SSTの各技法は対話の流れを後押しするものであり、技法を駆使して参加者をどうにかしようとするものではない。遅ればせながらようやくそれを思い知った時から、少しSSTへの抵抗感が減ってきたように思う。

 

今回担当させていただいたコラムは「SSTに興味がある方や実践した事がない方へのメッセージ」だったのだが、ここまでを読み返すとメッセージ性があまり無いような気がする。メッセージは「SSTを一緒にやりませんか!」

 

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.06 2023年10月)

 

※PDFファイルで読む →SSTに興味がある方や実践した事がない方へのメッセージ

リレーコラム

SST「現場での体験談」

片柳光昭

 

私がSSTを初めて知ったのは、約25年前に精神科病院付属の精神科デイケアで勤務していた時である。当時、勤務先でSSTプログラムを導入することが決まったのだが、スタッフは誰もSSTを行ったことがなかったため、別の部署に所属していた認定講師にお願いして、通所者を対象にしたSSTを何度か実践していただいた。見学という形でSSTを初めて見た私の印象は、決して良いものではなかった。プログラム中、何度も拍手をしたり、褒めることが続いたり、進め方も決まっていて、日常の生活とはかけ離れたやり取りのように感じ、これは一体何をしているのかと全く理解ができないでいた。しかし、私の反応とは異なり、参加している通所者は表情をイキイキとさせ、普段ほとんど他者交流が見られない通所者がロールプレイを行ったり、他の通所者のために自分の経験を話したりと、私が知らない通所者の側面をいくつも見ることができた。そのことはとても衝撃的だった。通所者の様々な生きる可能性を感じられたことが嬉しくて、SSTについて少しずつ学びを深めていった。

その後、私も含めた精神科デイケア専属のスタッフが週に1回の頻度で実施することになり、毎回、準備と終了後の振り返りが続いた。準備では、朝早くに職場に出向き、誰もいないデイルームに椅子を並べて、デイケアにあったぬいぐるみを椅子の上に置き、本番さながらに予行練習をしたりもした。参加者のよかったところ、できているところを上手く本人に伝えられず、ほめる言葉全集というようなタイトルの書籍を購入したこともあった。準備を入念にしても上手くいかないことも多かったが、参加者から「今日の練習で自信が持てた」「そんなスキルがあるなんて知らなかった。知ることができてよかった」といった感想が少しずつ聞かれるようになり、少しは役に立てている気がして胸をなでおろした記憶が残っている。

それでもSSTの時間が始まると頭が真っ白になり、何を練習したらよいのか、次にどう進めたらよいのか、展開が全く見えなくなることが度々起こった。そういう時に限って、リーダーである自分がしっかりしなければ、自分がグループをまとめて進めていかなければとの思いが余計に強くなり、仮に頭が真っ白になったとしても、それを参加者に悟られないように半ば強引に進めていく…そのようなやり方は当然上手くいくはずもないのだが、他に手立てがあるわけでもなく迷子になることが多々あった。ある日のSSTでのこと、例によって進め方が分からなくなってしまった。どうしたらよいのか、その先が見えずに困って立ち尽くしていると「リーダーさん、こうしてみたら?」「次は、これをやればいいんだよ」と参加者から暖かな声が聞こえてきた。そうか、参加者の皆さんからの声に助けてもらい、一緒にSSTを作っていけばいいのかとハッとさせられた。目の前にいる参加者が見えなくなり、SSTを上手く進めることばかり気を取られていたのだ。いくらSSTを上手く進めたところで参加者の豊かさにつながなければ私の自己満足でしかない。SSTは目的ではなく手段であり、その目的は参加者の生きる豊かさを広げ、深め、高めるためであることを、このような苦い経験を通じて何度も教えていただいた。

これまで様々な場面でSSTを実施してきたが、25年以上経過した今も、始める前には緊張もするし、上手く進められないこともまた起こる。それでも、参加者が抱えている困りごとや問題の解決に向けて、その場にいる全員がいろいろな可能性を探りながら進んでいく時間はいつも創造性に満ちている。そのような時間をこれからも大切にしながら、SSTに携わっていきたいと考えている。

 

 

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.05 2023年9月)

※PDFファイルで読む → SST「現場での体験談」

2023年6月3日リレーコラム