リレーコラム28 加藤祐介 2020年2月

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足りないもの

加藤祐介

チク、タク、チク、タク・・・、ボーォン、ボーォォン、ボーォォォン・・・ 。

柱時計から響く大きな音で目を覚ます。四辺を障子と襖に囲まれた六畳一間の和室に私は眠っていた。縁側の障子は橙色に染まっている。長押の上の小壁には、額入りの賞状がびっしりと飾られている。部屋の一辺の障子は開けられたままで、そこから見える広い玄関にゼンマイ式の大きな柱時計があり、その近くには日めくりカレンダーも見える。視線を変えると、靴棚の上に5円玉で作った兜、日本刀、日本人形などが飾られている。それらが何なのか、何の機能を持っているのか、どういった意味で置かれているのか私にはわからない。時計が鳴りやむと同時に部屋が静寂に包まれた。物音はせず人の気配はない。本能的に全身をじたばたさせる。手足は動くが、身体を動かしたり、立ち上がれるほどの力はない。言葉を発することもできず、出るのは叫び声や唸り声だけ。涙があふれてくる。いったい、どれくらいの時間そうしていただろうか。周りからの反応はなく、いくら繰り返しても喉も涙も枯れていくだけ…。疲れ果てた頃に、ようやく、ガラガラっと玄関の引き戸の開く音がした。帰って来たのは畑仕事をしていた祖母だ。泣き疲れた私は、物音に耳を澄ます。誰かが傍にいることに安堵して、また眠りに落ちる・・・。
これは私の最早期の記憶、おそらく乳児時期のものだと思う。もしかしたら、作られた記憶なのかもしれないし、夢で見た情景なのかもしれない。ただ、関心を向けられないこと、声が届かないことが、どれだけ恐ろしいものなのかを私は確かに体験していた。

時は移り、2019年。ある学会で大グループのケースを発表した時のことだ。それは、珍しく参加人数がとても少なく、輪を小さくすることを提案したセッションだった。出来上がった輪はいびつで、川崎の殺傷事件や子どもの喪失などが話題となる重苦しい回だった。グループは沈黙ばかりで反応に乏しく、コンダクターの私はグループが死んでしまう、何とか生かさなければならないという危機感をもった。しかし私のコメントはどれも虚空に吸い込まれるのみで、重たい空気のままセッションは終了した。無力感でいっぱいだった。私が加害者になったような気持ちだった。
シナリオロールプレイを終えてもそれは同じだった。ディスカッションで、コンダクターがメンバーに話すことを強要している、コンダクター自身の気持ちを話していない、など様々なフィードバックがされる中、ある参加者が「学生の私が言うのも失礼ですが」と丁寧に前置きして、「コンダクターが患者の問題を何とかしようとしているように感じる。何とかするのは患者自身なのでは?」と、率直な疑問を私に向けた。私はこの疑問を、患者やグループを自己愛的に利用していることへのコンフロンテーションだと直感的に理解した。この“基本中の基本”ともいうべき指摘に、私のこころはバットで顔面を殴られたような、頭に思い切り拳骨をくらったような激しい衝撃を受けた。私が一生懸命やろうとしていたことは、治療に害をなすような取り返しのつかないことだったと気付かされ、愕然とした。グループ中のメンバーの言葉にならない思いが、参加者の様々なコメントによって代弁され、私に返ってきているように感じられた。ただ残念なことにその時の私には、一人一人のコメントが恐ろしく感じられ、フィードバックを率直に受け入れる余裕はなかった。私に反論の余地がない事は明白だった。その場から逃げ出したい気持ちと、自己保身のための湧いてくる激しい怒りに圧倒され、その恥と憤りを抑え、その場に留まることだけで精一杯だった。同時に、自分の意思に反してあふれてくる涙をこらえることに必死だった。

後日、この体験から思い至ったのは、私の「こころに足りないもの」を、無意識的にグループを使って埋めようとしていたのかもしれない、ということだ。セッション中体験した私の無力感は、確かに私の「邪な願望」によるものだった。そのことが、だんだんと実感を伴って理解されるようになった。
この体験を伝えるには、私の「こころに足りないもの」についてもう少し説明が必要だと思う。生育史と関連するため長くなるが、お付き合いいただきたい。

私には両親と弟が一人いる。両親は共働きで学校の先生をしていた。いつも帰りが遅いため、両親よりも祖父母と一緒に過ごす時間が長かった。祖父母は本当によく私たち兄弟の面倒を見てくれていたと思う。幼少時の私をおんぶして畑仕事をする祖母の背中の感触を覚えているし、少し大きくなると、祖母に喜んでもらえるのがうれしくて、一生懸命に仕事の手伝いをした。ただ、子どもにできることは限られているし、作業にはすぐ飽きてしまう。だから大半は祖父母の邪魔にならないように、畑・たんぼの隅っこや、作業小屋の中で時間が過ぎるのをひたすらに待った。家の外では退屈な時間が長かった。家の中では、頑固な祖父の語気強い汚い言葉が響いてくることがあったし、時折、両親の怒鳴りあいの喧嘩や、祖父と父の取っ組み合いが起こった。父はカッとなると物を破壊したし、口うるさい母は「あれをしなさい」「これをしなさい」と、私たち兄弟にしつこく言い聞かせた。様々なことが私のこころを脅かし、不安や緊張がとても強かった。
その反動か、幼児期の私は空想遊びに没頭することが多かった。秘密基地を作り戦隊物ごっこをしたり、プラモデルを使って色々な物語を作った。テーマは必ず、激しい争いの後に平和が待っているというものだった。それと、ブロック遊びも好きだった。様々な形のパーツを組み合わせて、いろいろな物を作ることができるからだ。空想の中ではヒーローになれたし、欲しいものがなんでも手に入った。

ある時、私は、なかなか買ってもらえないミニカーやチョロQの代わりに、ブロックで「車」を作ろうと思い至った。完成間近になり、家にあるブロックでは、足りない色のパーツがあることに気づいた。どうしても違う色ではよしとすることが出来なかった。しかし語彙が少なく表現の手段に乏しかった私は、親の前で「あの色の部品が欲しい」ということを言葉にできなかった。色の名前もよくわからなかったし、部品の名前もわからなかったし、ダメだと言われるとどこかで察していたからだ。それに、別の色の同じ物があると言われてしまうと、この色へのこだわりを何と説明すればいいのかわからなかった。後日、保育園に私の思い描いた色のパーツがあることを発見し、興奮して居ても立ってもいられなくなった。ダメなことだとわかりつつ、どうしても欲しいという気持ちを止めることができず、こっそりとポケットに入れて持ち帰った。ドキドキしながら家で組み立ててみると、想像した通りの自信作が完成した。これだ、これなんだ!と、うれしくなった私は、盗んできたことをすっかり忘れて、上機嫌に、家じゅうの人に自慢をしに行った。ただ、その車をみた親の第一声は「その部品はどうしたんだ」だった。口ごもる私の反応に盗んだことは即刻バレ、万能感の世界は一変した。父親から頭に拳骨をくらい、ワンワン泣いた。うれしい気持ちは反転して激しい罪悪感になった。「悪い子は捨てられる」と教わっていたので、本気でそうなると思っていた。いつその日が来るのだろうとビクビクしていた。空想することは恐ろしくなり、伸び伸びと遊ぶことができなくなった。

小学校にあがると、両親が重視するのは学校の成績や「先生の子ども」らしい態度であり、買い与えられるものと言えば、面白くもない図鑑や辞書、教材ばかりだった。嫌々ながら習い事もさせられた。その点、弟は強く、嫌なものは嫌だとはっきり言い、習い事は免除されていた。両親は学校と同じように私に課題を与え、机に座っている時間や完成したプリントの枚数など、質よりも量で評価した。作業を終えても「よくやった」の一言はなかった。それは両親にとって「できて当たり前」のことだったからだ。同業者の子どもたちは皆優秀だから、○○君は、○○さんの家は・・・と、それらと比べられ続けるのは苦痛だった。
プレッシャーが閾値を超え、喘息発作を起こすと、仕事を休めない両親の代わりに祖母が私を病院に連れて行ってくれた。そして、その帰り道に好きなおもちゃを買い与えてくれた。弟の分も買ったが、必ず自分の方を少しだけ良い物にした。喘息発作がこころの苦痛を代弁してくれていたし、祖母に甘やかしてもらうことで癒されていた。そのかわり、思いを言葉にする力は身につかなかった。
私の喘息発作を、両親はアレルギー性のものだと信じて疑わなかった。だから、ヒステリックな母の「なんでできないの」「早くやりなさい」という口癖や、家庭に無関心な父の「俺の子どもなんだからできるはずだ」という無責任な言葉は、私が発作を起こしても変わらず、何度も何度も繰り返された。仕事上、私よりもよくできる子どもたちをたくさん見ているから、私のありのままの姿では両親は満足しなかった。「できの良い子」と同じ水準を求め、提出物は必ず手直しが入った。それで良い評価をもらうこともあった。でも親の手が加わった作品で賞をとってもうれしくもなんともなかった。
この時期、私の内的な辛さに目を向けてくれたのは、祖母と、学会誌のコラムに書いた、担任の先生だけだった。

高校に進学すると、周りを優秀な人たちに囲まれ、現実を思い知ることになった。そこで私は、とてもではないが「できのよい子」の枠には入れないことを悟った。私のポテンシャルと根性では親の注意をひくことはできなかった。頑張ることに喜びを感じなくなった私は、見捨てられない程度に、適度にグレた。怖くてハメを外すことはできなかったが、わずかながらの反抗心を振り絞り、学校をサボったり、バンドを始め、髪を染めたりした。そして親に楽器を買ってもらう交渉をし、そのためだけに勉強をした。
その後、家から離れたくて遠方の大学(心理学科)に進学した。それは、それまで私のこころに関心を向けて、手を差し伸べてくれる人が少なかったから、自分と同じように困っている人に、手を差し伸べることができるようになりたかったのだと思う。そうすることで本能的に自分の心を癒せると思ったのだろう。

この拙い文章の回想で示そうとしたものを概括すれば、私のこころに「足りないもの」は「気持ち(内面)に関心を向けてもらう体験」と「自分の気持ちを外に表現する力」の2つだ。その足りないものを世の中に足りないものと錯覚し、それが必要だと思って心理学を勉強したのだと思う。資格も取り、就職もしたが、結局のところ「人のため」「世の中のため」という動機は口実だった。ほんとうは親とは違い、子どもの気持ちのわかる「先生」になりたかった。教師でも、弁護士でも、医者でも何でも良いから「先生」になって、いろんな人を助けたかった。親にできなかったことをすることで見返したかったし、私の内的な親(先生)イメージを変えたかった。しかし、残念ながら私の力では「先生」にはなれなかった。叶わなかった願いの残滓が、今の仕事に繋がっているのだと思う。

さて、補足が長くなったが、学会の話に戻ろう。グループで私は、目の前の患者ではなく、患者を通して過去の私を見ていたように思う。私はメンバーの沈黙する姿や語られるテーマに、援助を必要としながらもその気持ちを表現できない自分自身の姿を重ね、メンバーに無理やりしゃべらせようとした。動かないグループは、気持ちに注意を向けてもらえない、気持ちを言葉にすることができない、苦悩や苛立ちを抱えながらも不貞腐れることしかできないかつての私の姿だった。そこに、コンダクターとしての親を超えることができない悔しさと挫折が加わった。これらが私の体験した「無力さ」に繋がったのだと思う。私の問題なのだから、グループを何ともできないのは当然だ。ありがたいことに、事例発表を通してそのことに気づかせてもらった。

困っている人を助けたい・救いたいと考える私のエゴは、幼少時の空想遊びのような、万能感に基づく「救世主願望」としてグループの中に現れていた。そして盗みを罰する拳骨と同じように、参加者からのフィードバックが私を現実に引き戻した。こんなに辛い思いをするのなら、こんなに人前で恥をかくのなら、発表しなければよかったと思ったが、その私の恥ずかしさや罪悪感に、私の「こころの足りないもの」が反応していると考えると納得がいく。優秀な人に対する憎しみや嫉妬、劣等感、権力者を前にする恐怖や萎縮、一人置き去りにされる孤独や絶望など、過去の未消化な情緒が掻き立てられていることがわかるからだ。「先生」という言葉を嫌いながら強烈な魅力を感じる自分がいるのも、今ならわかる。私にできないこと、足りないものを、まだ私自身が受け入れられていないのだ。

過去は取り返しがつかないし、生まれた環境や資質は変えられない。それなのに臨床の場を利用して、都合の悪い部分を否認し、こころに足りないものを満たそうとしていた。このままでは非常にマズイ。自分の問題と患者の問題とを区別できなければ、患者や組織に悪影響を及ぼしてしまう。
世の中に足りないものを埋めようと頑張ってきたが、結局は自分のこころに足りないものを埋めようとしているだけだった。それに気づいてしまったからには仕方がない。足りないものを無理やり埋めたり、ごまかそうと万能感に浸ったり、幻想にしがみつくのは、そろそろやめにしなければならない。そのためには、足りないものにきちんと目を向け、欠損を認め、それを埋めようとするのではなく、それはそのままにできる力が必要と思う。代わりに、欠損部分を他のもので支えたり、人の力を借りたり、そのままでも満足できるようなりたい。だから、私はこの体験をコラムに書こうと思った。自分が変わらなければ、成長しなければ、良い道具にはなれないと思うから。

臨床家や支援者の中には、私と似たように自己愛、万能感、救世主願望や自己犠牲傾向を強く持っていたり、また過剰に世話焼きをして親切の押し売りで自己満足をするような傾向を持っている人が、少なからずいると思う。もし心当たりがあれば、事例を発表する機会を持ち、私と同じような体験をして、共に苦悩を味わってほしい。
幸い、その体験を分かち合ってくれる人が、この学会にはたくさんいる。情けない・恥ずかしい体験を話したり、表現したり、振り返ることは、臨床家としての精度を上げてくれるし、必ず成長の役に立つと思う。
もう私には子ども時代のように一人で悩み、我慢する必要はないし、誰かに関心を向けてもらうために症状化する必要もない。今はこうして安心して言葉で表現できる場所がある。

読む人によっては、私の境遇がとても恵まれたものと感じられたかもしれないし、不快に思ったかもしれない。感じ方は人それぞれで、どのように評価されてもいい。ただ、私にとってはこのように、自分の体験を表現することに意味があり、自分の体験について言語化し、誰かと言葉を交わせるようになることが重要だと思っている。だから一方的な批判や評価をせず、そのままに読んでもらえればとてもうれしい。このようなことを日本集団精神療法学会という“グループ”の力を借りて、会員が相互にできれば、何かが変わっていくように思う。臨床のグループも、この学会も、参加する誰もが、自分の体験を表現することを許された場所だと思うから。

どうか、今後もこの学会が、体験を安心して話せる、表現できる場所であってほしい。そのために足らないところがあるのならば、その点をしっかり見つめ、その部分を補うことのできる力を身につけていきたい。

チク、タク、チク、タク・・・。ようやく、私のこころの時間が動き出したように感じる。

 (集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2020年2月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム28 足りないもの / 加藤祐介

 

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