リレーコラム新企画 No. 3 ――歴代教研委員長のひとりとして――はじめ自信がなかったけど、結構楽しかったなあ/相田信男
――歴代教研委員長のひとりとして――はじめ自信がなかったけど、結構楽しかったなあ
相田信男
前史――私が教育研修委員長に就任するまで》
JAGP第一回研修会が開催されたのが1988年、私にとってはJAGPに触れる初めての機会だった。44歳、遅れてきた研修者。やがて現在の教育研修システムが1999年7月に施行、最初の学会理事選挙が2002年1月にありその春から3年任期の理事会体制が始まった。
その前の6年間にわたり言わば学会の混乱期に理事長をなさった鈴木純一氏に交代して、選挙後最初の学会理事長になったのは、それまで長いこと事務局長を務めてこられた北西憲二氏だった。「これまでの経過からして私の役目でしょうね」と自らこの仕事を買って出られた彼の姿をみて、私はこの人が組織化していかれる常任理事会(法人後は理事会に相当)で、仮に私が申し渡された役割は何であっても引き受けようと密かに決意していた。
《教育研修委員長となった私、そしてリレーコラムへ》
遅れてきたグループセラピー研修者だと自認していた私にとって、無論それは大役すぎたのだが、いまさら決意を翻すわけにもいかず、初回の常任理事会で任命された教育研修委員長を自信のないままに引き受けた。そこで、それまで長いこと研修担当事務局だった髙林健示さんに一緒にやってもらおうと思いつき彼に副委員長をお願いした。結果的に私は二期にわたる委員長で、髙林さんは二期の間の副委員長の後2008年に委員長を引き受けてくれた(2008年当時、田原明夫理事長、田辺等教育研修副委員長)。
さて『歴代教育研修委員長に聞いてみよう』と銘打ったリレーコラムだが出場(執筆)順が幾分曖昧だ。源には「初代委員長は髙林さんで次が私だった」という誤った情報を広報委員に伝えた私に責任があったのではないかと幾分気にしていた。実は上述の過程の事実をこの度改めて思い出した次第なのである。その実態はこうだろう。私は(初代の)髙林さんから委員長を引き継いだと記憶錯誤を起こすほどに、彼を頼りにし、あるいは彼と協働してこの任務を(やっとのことで)果たそうとしてきたわけである。
私が委員長任期の一期目には長谷川麻弓さんが、二期目には菊地寿奈美さんが、教育研修委員会事務局の仕事を引き受けてくださり、私はそれぞれの方を大変頼りにして任期を過ごした。殊に、事務局員の文字通り多大な働きがなければとてもではないが運用しきれない研修システム、プログラムであった。電子メールは未だ一般的でなく、東京-群馬、京都-群馬の度重なる連絡にFaxが重宝した時代である。
(と、ここまでで当初の執筆依頼に定められた「1000字程度」の枠を超えた。HP上のコラムには読みやすい適切な量なのだろう。だが未だなにも語っていないに近いので、ここは「増やす分には可」という広報委員からの付記に甘えて、なお書き続けることにする。)
自分の手に負えないと思ったら、あるいは困りそうになったら、平気でいろいろな人の助けを借りるという私の臨床生活から学んだ活動方針(ないし人生観)が大いに生きたのだと思う。ただただ仲間を頼りに巻き込みながら作業を続けた。些か暴露的な情報提供だが、髙林さんは大会中に高熱を出すことがよくあったと最近聞いた。長谷川さんについて詳しくは知らないが、菊地さんが整体(鍼灸)に通うようになったのはあの過酷な事務局仕事のせいだったろうと想像している。私は病気になったことがない。ありがたい。
《研修会のこと、「地域ミニ研修会」のこと》
秋の研修会でこんなことがあった。体験グループで第一セッションを欠席した二人が第二セッションに座っている。ワケを訊いたところ、他の学会に出ていたのだが、学会大会プログラムを選択するのと同様に、第二セッションからの参加に決めたからだと謂う。コンダクターをしていた私は研修会修了証を発行できないと申し出たが、最後の(合同)大グループで大討論になってしまった。以来、「遅刻をしないように」と、配布される「学会主催研修会のお知らせ」の注意事項に書かれるようになった。が、あるときどうしても早く帰りたいからと「早退」した人が居たそうだ。次回から「遅刻・早退はしないように」と記された。が、さらに――私が委員長を辞めた後だが――ある日、途中のセッションを「中抜け」して所用を済ませてグループに戻ってきたメンバーがいたと謂う。ついに「遅刻・途中退席・早退をしないように」と注文をつける結果を生んだ。
この記事を読まれて、みなさん、どう思われますか? 私自身は今やまったく関与しない作業だけれども、こうした経緯を思い返すと、細かなルールを並べ立てた始末の末、依存的構造を作るに至ってしまったと当時のうんざりした気分も蘇ってくるし、ともかく残念な気持ちになったのだと覚えている。
年間定例(に相当)の研修会は、現行同様、春の大会のプレコングレスとして、また秋の研修会として、年二回開催。ことに秋については2002年から、現行のように東京以外の土地でも開くようになった。ところで定例研修会の他に「地域ミニ研修会」なるものがあった事実を、もうご存じない方もおられるかと考え、記録代わりに記しておきたい。
「地域ミニ研修会」の初回は2003年9月の最終土日、八戸市でのことだった。この研修会はある地域からのリクエストに応えて、その地域の人たちが借りてくれた会場に向かって、教育研修委員会が公告、参加者募集、プログラム設定(併せてグループ分け)、コンダクターとか講師、事例提供者、スーパーバイザーを人選し、言わば「プログラムと運営一切を“出前”する」格好で、年に1回時期を定めず開催し続けた。そして松山での第七回を最後に終了、2009年7月半ばの週末だった。地域ミニ研修会は少なくとも教育研修委員会(とりわけ事務局)に多大な負担を強いる事業だった一方、年々参加者数が減少傾向になったこととも相まって終了に至った。日本中に“出前”するという当初の目的は一程度果たせたという判断もあった。が、最終回の参加者は会員20名、非会員25名という最大数を記録したのだった。こうして廻った各地域から、その後のグループ活動、JAGP活動を担う人たちが誕生していった。グループを前に “成果”を見る思いがしたし、それ以外にも教育研修委員会にいて楽しい気分を味わえる体験も多々あったと、今日懐かしく思い返している。
私はコンダクターを引き受けている場合、翌日の体験グループに向けてサブグループ形成が起きないようにと、研修会日程中は他の人と呑みに行かないという原則を大分前から実行していた。お陰でせっかく出かけた初めての土地で、そこで知り合った人と土地の名産を肴に旨い酒を呑むという、想像すると楽しそうな機会をずいぶん逃した。自分で作った原則ながら――ときには破ったけれども――惜しいことをしたと、未練がましく今思い返している。
《おわりに》
当初のこころづもりでは、もうひとつ「シナリオロールプレイ」について説明して、未だ集団精神療法に、あるいはこの学会に、なじみの薄い人々に向けたPRをしたいと、ちょっとした野心を抱いていた。でも、さすが、ここまででも紙数が尽きた状態にある。
またなにかの機会に話させてもらいたいと思います。長文になりましたが、ありがとうございました。
日本集団精神療法学会公式HPコラム No.3 2022年4月)
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