リレーコラム25 水上真理子 2019年11月

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『所属への意思』

水上 真理子

 最近、自分の所属先や分類先について、ふと思ったことがあります。私がこの仕事に就いたことも、長らく今の職場に居付いていることも、自らの意思によるものです。自分の所属先を自分の意思で決めることや、そこに選択肢があることを当たり前のことように感じられる、そのこと自体がありがたいです。そんな中で、自分の知らないうちに所属が変わっていたかのように感じられることが、そういえばあったな…と。恐らく、自分の意識や他の人達との関係性の変化が、違和感やフィット感を作り出しているだけなのでしょうが、とにかく、それらについて少し書いてみようと思います。

 私は、この日本に女児として生まれました。そんな私は、10代半ばでアメリカ生活を体験したことを機に、「ああ、なるほど。私は東洋人で、かつ、女なんだ(という感じで分類されるんだ)」と、自分のナショナリティやジェンダーを強く意識することになります。そこで、それについて他者や社会や世界が、好悪や優劣を付けて視るのだということも知りました。子どもながらに、他者からの評価を理解していたはずでしたが、それまでとは何か違った質感のラベルが、自分に貼付したような体験ではありました。男女だけでないジェンダーの在り方や表現に出逢ったのも、その頃でした。個別性や他者との違いを強調する多種多様な人達が溢れる国で過ごしたおかげで、この世には、色々な現実が存在することを知り得たような気がします。そんな私に、今になって、新しいエッジが登場しました。それは、「女子性」です。

 これは、自分がもっと若かった頃、つまり本当に女子だった頃には、特に意識などしなかったものです。今や、老いも若きも、自分のことを女子と呼びます。いや、呼ばない人もいますね、中には。ですので、「女子」は、単純に、女性全体を指す言葉ということではないようです。かくいう私は、自分のことを「女子」と言ったり、女性のみの会合を「女子会」という呼ぶことに、気恥ずかしさを感じ始めています。女子会なるものが世に登場してから、何年もが経ち、「いくつまで女子と呼ぶか」論争など、ネットや紙面上に繰り広げられるようになってから久しい今、私にも実際に来ました、これをきちんと恥ずかしいと思ってしまう、この時が。

 「おばさん」を女性の成長過程における一定の期間に見られる現象、トランスフォームの一形態だとすると、一体、女子は何なのか。今や老いも若きも…なわけですから、どうやら、ある一時期を指し示すものでもなさそうです。もはや女子とは言いがたい自分達を揶揄するために、敢えて、「女子呼び」する方もいるようですが、それにしても、周りを見渡すと、これが結構、みなさん若々しい。私が子どもの頃に、「おばさん」と呼んでいた人達の年齢なんかゆうに超えているはずなのに、現在、私の周りにいる人の多くは、当時のイメージとは違った印象を湛えています。30歳を超えても、なお、アイドルという職業に就き続けることが可能な、若さや幼さがもてはやされる日本。この社会がネオテニー的な女性の在り方を好んでいるところがあるから、女達がその価値基準に甘んじているのだろうか…などと、少し皮肉めいた見方さえ湧いてきたりします。

 話を戻しますと、いつのまにか私の属性は、女児から女子になり、どこかのタイミングで女性になったのですが、再び、女子がオプションとして(?)復活してきていたのです。「女性」は成人の女を指し示す言葉であるはずで、一度、「女性」になると、特別なことがない限り女性のままで一生を終えることが可能です。わざわざ「女子」だの、「おばさん」だの言っている私には、結局のところ、この社会における、あるいは、自分が子どもの頃に抱いた「おばさんのイメージ」を、引き受けられない往生際の悪さがあるだけなのかもしれません。加齢を否認したいのは、妙齢をとうに過ぎたアイドル達が、自分達をまるで瑞々しい存在かのようにアピールしているのと、何ら変わりないのでしょう。そう思ってみても、やはり、私にとっては、女子かおばさんかという具合に考えると、どちらも所属するに落ち着かないところなのです。

 ありがたいことに、私には、楽しく時間を共有してくれる人達がいます。年齢、性別、職業ともに様々。その中でも、音楽を通じて知り合い、年中通して、飲食を共にしたり、キャンプをして過ごすグループがあります。夏には全国からメンバーが一同に会して、寝食を共にします。長年の家族ぐるみの付き合いには、グループメンバーの家族の誕生や成長を喜び、また、喪失を悼みあってきた歴史があります。このようにして、互いのライフイベントを見守ってきたので、この仲間は、すっかり親戚のようであります。この血縁のない親戚コミュニティは、いつのまにか、私が私らしくあることを支えてくれる大事な繋がりになりました。

 「まるで親戚のような」というくらいですから、当然、私にもそれの原型となる関係性はあります。子どもの頃、年に1〜2回、年始やお盆などで会うくらいの間柄ではありましたが、子ども心にも、特別な関係性の人達に会うことを、ワクワクと待ちわびていたことを覚えています。幼い私にとっては、年長の従姉妹が、自分の成長モデルのように見えていたこともありました。ですが、年々、本物の親戚との関係は希薄になり、希薄になって行くことにさほど違和感も抵抗も持たず。気がつけば、血縁関係のない人達の方により愛着を感じ、挙句の果てに親戚呼ばわりする有様です。自分自身の体験としては、おかしなものだと面白がる一方で、関係性の変化に伴い、何を、あるいは、誰を大事に想い、親しい存在と感じるかということが移り行くのは、それほど珍しいものでもないのだろうと思います。

 そして、このコミュニティのサブグループに位置する女性チームでの会合を、「レディース総会」と、私達は呼んでいます。世に言う「女子会」なのですが、これに参加する自分達自身を、「女子」と定義することへのちょっとした気恥ずかしさに、ロック魂という名の反抗心を込めたネーミングです。レディースという言葉からは、色々と想像されるかもしれませんが、多少の反抗心はあれども、決して、反社会的武闘派というわけではありません。メンバー全員、一応、社会の枠組みの中に収まっています。で、これがひじょうに心地良い。「女子」や「おばさん」に限定されない枠組みであるというのも、その居心地の良さを支える理由の1つであるかもしれませんが、何よりも、互いに気持ちを寄せ合う関係性であることや、グループとしての凝集性が感じられる集まりであることは言うまでもありません。加えて、この心地の良さには、自分にとっての「ちょうど良さ」を「自分で選び取っている」というところにも意味があるのだと思っています。

 私はいつの頃からか、勝手に与えられた見方や分類に、また、居心地の悪い空間に対して、きちんと不快感を表明できるようになっていて、さらに、自分にとっての居心地の良い場所を選び取ることに、さほど怖れや諦めを抱かなくなっていました。こんな風に、自分で選べる力を身に付けることができたこれまでの歩みを、そして、この力を育まれたものとして感じられる今を、私自身はとても気に入っています。ここまでの道のりには、数多くの人の手助けがあり、また、学び舎としては、この学会や北海道の研究会の存在がありました。そんなわけで、毎年の学会費や研究会費納入の際には、自分自身の所属への意思をしっかりと味わいながら手続きをしているのです。

 (集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2019年11月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム25「所属への意思」/水上真理子

 

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