たった10回の治療プログラムが、器としてのグループであるために/中里容子さん (リレーコラム12)
たった10回の治療プログラムが、器としてのグループであるために
中里容子
児童精神科で臨床をスタートして3年目。ADHD児の保護者を対象にしたペアレント・トレーニングという全10回の心理教育プログラムのファシリテーターを経験した。行動理論に基づいたプログラムで、親たちにまず基本のスキルとして「子どもを褒める」「良いところに注目する」という好ましい行動への「正の強化」がレクチャーされる。この時同時に、我々ファシリテーターは、我が子への対応に悩み、自信を無くし、イライラしたり悲しくなっているグループメンバーである親たちの「良いところ」を探し「称賛」していくこととなる。これというのは本当に強力な技で、誰かから自分の良いところに気づかれ、承認された親や子どもは、そのやり取りだけでも随分変化していくように見えるし、実際に子どもの問題行動の激減や、プログラムで教わったことをホームワークで実践してみることができた喜びがグループで報告され、メンバーたちはお互いでお互いの「良いところ」を見つけだし、支え合うようになる。
医療の現場で我々に求められるのは、こんな、誰がやってもある程度均質で、制限回数内で一定の効果が期待できて、参加メンバーがエンパワーされるようなグループであることが多いように思う。
ちなみに、このプログラムは、隣の観察室で、私の臨床のお手本となっている人たちがずっと見ていて、プログラム終了後に私たち自身がけっこう称賛してもらいながら、いくつかの手厳しい指導を与えられていた。まんまと、親に褒められる子ども、ファシリテーターに褒められる親、と同じ体験をして、私も、私の仲間たちも、「称賛・承認」することが大変上手になったと思う。
問題はここから。どんなに良いテキストができあがっていても、どんなに褒める態勢で待ち構えていても、「上手くいかなかった」「やりたくない」「何の意味があるのか分からない」そんな声は必ずあがる。褒めるのが上手になったファシリテーターは、こんな褒める余地のないことを言われてしまうと滅法弱い。聞かなかったことにしたり、さらっと流したり、一生懸命上手くいくように説明をまくしたてたりしたくなる。頑張って褒めようとすると、なんだかとても嘘くさい。だんだんと、「いいね!」にならない発言が投げ入れられたらどうしようかとビクビクしたり、できれば発言しないで欲しいと思ってきたりする。
はじめて集団精神療法学会の「体験グループ」とやらに出た。知らない人ばかりなのに自己紹介も挨拶もしない。もちろん「いいね!」が飛び交ったりもしない。ブスッとしてる人がいる。怒ってるみたいな人もいる。何でもないはずの私の一言に、いきなりグサッとくること言ってくる人もいる。こんなの、普段の人間関係や、臨床場面ではありえないだろうと思った。
どうして自分が2回目の「体験グループ」に足を運んだのか、今となってはハッキリしない。ただ、あのグループの中で、ブスッとしてる人はとても優しい人だったし、怒ってるみたいな人から発せられる繊細で深遠な言葉にハッとさせられたし、グサッときたあの言葉が、今となっては私を助けてくれている。そしてグループは、ビビってる私も、怒っている私も、甘えてる私も、泣いてる私も、最後まで居させてくれたし、コンダクターは「あなたはそれを大事にしたらいい」と言った。
臨床現場と随分違うように思える「体験グループ」に出てから、テキストのある、回数限定の、なるべく均質であることが好ましい治療プログラムで、テキストに異を唱える人や、ワークをやりたくないという人や、なんだか怒っている人が、とても大切なメンバーになった。もちろん「いいね!」のポイントは探し続けている。たった10回というどうにも短すぎる期間に、できれば最低限の“安心”を感じながら、きっと身に着けていたら日常のどこかで役に立つ技を持ち帰ってもらうことを目指すグループにとって、お互いの「いいね!」は、心と心が一時的に繋がるための接着剤のように働いてくれる。ただ、接着剤ではくっつかない形や素材があるし、無理矢理くっつけるとベタベタなだけになってしまう。むしろ接着剤ではくっつきにくい、テキストから逸れた感情は、何か大事なことに気づかせてくれる、他のメンバーにとっても必要な、「それを大事にすると良い」ものだと、今ではほとんど確信している。
テキストのある治療プログラムのファシリテーター(進行する人)であることと、いろんな気持ちを拾って抱えて繋げていくグループのコンダクター、あるいはコンテナーの一部であることは、とても大事な両輪になった。
私にも彼らにも色んな感情があって、それらはどれも大切で、扱いにくい感情ほど、誰かに一緒に抱えられた安心感を得られると、前に進むエネルギーになる。私はそのことを、グループで知りつつあるのかもしれない。復職支援プログラムでのたった16回の集団認知行動療法でも、依存症のたった10回のプログラムでも、「テキスト読んでワークやる」の大通りを両輪で走ってみると、スルスルと進めないデコボコ道にさしかかるのを、案外落ち着いて、少し楽しみに待つことができる気がしている。
(集団精神療法学会HP リレーコラム 2018年9月)
※PDFファイルで読む → リレーコラム12「たった10回の治療プログラムが~」 中里容子