リレーコラム44 高谷賢司 2021年6月

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職場の日常と体験グループ

高谷賢司

私の職場はこの4月に組織再編があった。チーム構成されていて、3グループからなる。今回、所属長が替わり、メンバーも一人増員された。私的な感覚だと、コンダクターが変わり、メンバーも一人増えたといった感じ。何となく無理やり職場とグループをつなぎ合わせたような言い方になっている気がしないでもないが、私にとって職場は、学会の「体験グループ」ととても似ているところから、このイメージが強いのだと思う。

学会の体験グループと言えば、まず場所と時間が事前に伝えられ、当日メンバー構成と時間割が告げられる。アナウンスも、グループ開催中に録音はするなど簡単なルール説明はあるものの、自己紹介をする必要があるかどうかなどについてはコンダクターに一任されているようで、話す内容などの制約はない。そのためなのか、私が経験してきた「体験グループ」は、開始後、しばらくの間、誰も何も語られないことが多い。日常生活では通常、見知らぬ人には先ず挨拶し、自分の名前や所属といった“私”という人をアナウンスするものだと思ってきた私にとって、顔を合わせても何も語らず、ただ黙っているという体験は、どこか異国の地にいる、いつもとは違う別世界の体験である。このいつもと違う体験は職場内でも起きた。

私が今の職場に入職したのは昨年4月から。入職が決まり、業務についてから3日目の金曜の午後、急遽コロナ禍による緊急事態宣言が発動され、職員は在宅業務を強いられることとなった。私の基本的な仕事は、個別に受ける人権相談業務のため、相談を受ける流れや手順といった職場特有のシステム研修を受けている最中の在宅業務となった。研修途中だし、強い不安に襲われるかと思ったが、以外にも在宅勤務は、気持ちを落ち着かせるいい時間稼ぎになった。実は私の不安の種は入職したばかりの業務不安よりも、むしろ新しい職場環境に慣れるだろうか、自分の話すことを周りは受け入れてくれるだろうかといった対人不安が強かったからである。もともと私は人見知り、そのため周りの目が気になる私にとって、一人で業務をすること、自宅という慣れた場所で仕事をすることで冷静さを取り戻すことができた。この在宅勤務の体験は、「体験グループ」の開始直後の沈黙体験を想起させた。

私は人前で話すことは苦手だし、いざ話をしようと思っても、自分の考えや気持ちをまとめるのに時間がかかってしまう。どうしよう、何を話そう、などと考えているうち時間ばかりが過ぎてしまい、考えているうちに話題は変わってしまう。グループが苦手な由縁である。しかし私の人見知りは今に始まったことではない。家庭の事情とはいえ、子供のころに何度も引っ越したことで、クラスに馴染むにはどうすればいいのか、クラスに溶け込むにはどうすればいいか、子供ながらにそんなことばかり考えていたのを覚えている。しかもやっと友だちができて、集団生活も落ち着いてきたと思ったらまた転校しなければならない。こんな経験が数度繰り返された。

そんな私が学会に入会して「体験グループ」を経験した。見知らぬ人たちと何を話せばいいのか分からない私にとって、グループはしばらく沈黙したまま、誰も何を話そうとしない。沈黙には不自然さを感じつつも、当時の私には緊張よりも安心が勝っていた。初めてのグループ、しかし心地良い。滑舌よくみんなと和気あいあいに話すということができない私にとって、ただ黙ってその場に居れば良く、かつ“私”を無理に語らずに済める体験は、私に安全だと感じる場をもたらせてくれた。

人間の集団では、人間の持つ様々な傾向のうち、特に相反する2つの傾向が賦活されるという。一つ成熟した社会性の傾向であり、もう一つは逆に、それまで潜在していた発達最早期の傾向である。前者の傾向が賦活されれば、グループの共通の目標に向かって人々が力を合わせ、人々の間の相違は理性的、科学的、そして創造的に処理され、能率的に仕事を進めることができる。逆に後者の傾向が賦活されると、人々の心に潜在する子供の心が活発になり、増強しあい、グループ全体が巻き込まれ、グループ本来の目的が見失われてしまう。このような性質がグループにはあるという。私の職場をこれに沿って考えてみると、今の職場の人の話し方は思考中心で、合理性を重視している。これは成熟した社会性の傾向ということになるのかもしれないが、必要最低限のことしか話さない態度、言葉にも表情にも表さない感情、まるでロボットに囲まれているような感じ。この環境は、私にとって仕事をする活力も湧いてこないし、何より一人でぽつんとしているように感じ取れた。この感覚は私が味わった発達早期の経験に近いものがあり追い込まれた感じすらした。もし私が過去に「体験グループ」で追い込まれつつも赦してもらえるという経験をしていなければ、私は子ども時代に味わった苦々しい経験を職場内で再体験し、それによって否認や分裂、投影や取り入れといった原始的防衛規制を強く働かせていたことだろう。そのため私の職場内の人間関係は、未成熟で非現実的な人間関係が繰り返されていたはずである。「体験グループ」の経験によって、私は子供の頃の引きこもり傾向から、今の職場という新しい社会性の傾向に目を向けることを可能にしてくれたわけである。

今回の大会でも、私は二日間とも「体験グループ」に参加した。今回のグループはWeb開催といういつもと違う構造で行われたが、いつもとは違う構造ということで、メンバーが参加しやすい環境をコンダクターは意図的に作ってくれていた。そのおかげで、私はその場を自由にただよう感覚を持ちながら、メンバーの話をゆったりと聴くことができたし、時に話すこともできた。また大会長講演では、人前で自身の体験を打ち明けることがいかに勇気の要ることなのか、そしてその勇気は、人に希望を与えるということを学んだ。大会最後の大グループでは、私の知っている人が心の奥にしまっておいた胸のうちを語ってくれた。私の身勝手な聴き方だとは思いつつも、その方のおかげで、私に中にある職場でグループを持っていないことによる羞恥心と無力感、学会で日常のグループをみんなと共有することができない絶望感、これらをその方が代弁してくれているように感じることができた。これらはみな、今回の大会テーマ「集団精神療法の知を問う」をあらためて考察するよい機会になった。

5月になり私の職場は、新しいメンバーの人が話し好きということに助けられながら、4月の時のような無理な笑顔と張りつめた緊張感はうすまり、少しずつだが私もメンバーも、笑いながら自身の気持ちを口にすることができるようになってきている。

(日本集団精神療法学会公式HPリレーコラム2021年6月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム44 職場の日常と体験グループ / 高谷賢司

 

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