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Aチーム、Bチーム/岡崎翼さん (リレーコラム47)

2021年11月4日

「Aチーム、Bチーム」

岡﨑翼

 

 高校生のとき、クラス対抗の球技大会が定期的に開かれていた。3年間同じメンバーだった私のクラスには男子が多く、同じ競技に2チームがエントリーすることが多かった。運動の苦手な私は、私の友人たちと共に、決まってBチームに振り分けられた。Aチームはたいてい勝ち進み、応援も自ずと盛り上がったが、Bチームはいつも初戦で敗退し、すぐにAチームの応援に回った。Bチームが一方的に負けているとき、Aチームのメンバーに眺められていると思うと私は恥ずかしくていたたまれない思いがした。優勝したAチームの歓喜の輪を前にしたとき、また担任が「スポーツの得意なクラス」と括ったとき、私は疎外感を抱きつつもとりあえずニコニコしてその場をやり過ごした。私より運動のできる友人がたまにAチームに振り分けられると、彼が調子に乗っているように見えて私はつい皮肉を言ったりした。

 何年生の頃のことか覚えていないが、そのときの競技はタッチ・フットボール(ともう1つ何か)だった。タッチ・フットボールに出るメンバーの中で当然Bチームだと思っていた私は、なぜかAチームに抜擢された(今振り返れば、運動の得意なクラスメイトがもう1つの競技に流れたのかもしれない)。Aチームの中心メンバーの1人から期待の声を掛けられ、私は平静を装いながらも正直なところちょっとうれしかった。いつも通りBチームに振り分けられた友人たちに何か言われることはなかったが、彼らよりは少しは動けるとひそかに思っていた私は、彼らに対してちょっとの申し訳なさとちょっとの優越感を抱いたのだった。

 大会当日、先に初戦を迎えたAチームは、攻守ともに歯車がかみ合わず、中心メンバーが本来の力を発揮できないうちに負けてしまった。足を引っ張ったかもしれないというきまりの悪さと、せっかくAチームに入ったのにまた初戦敗退かというがっかり感と共に、私はBチームの応援に回った。続いて登場したBチームは、外から見たからなのか、私がいないからなのか、いつもとどこか違っていた。ややぎこちないながらも攻守ともに“様になっていた”。やられてもひるまず、外野を気にすることもなく相手に立ち向かっていた。私は「こんなはずじゃなかった」という思いを抱きつつも、Bチームのひたむきなプレーに感動していた。負けはしたものの大善戦だった。感動がおさまった後は、情けなさや後ろめたさ、取り残された感がしばらく私の中を渦巻いていた。

 このリレーコラムが回ってきたとき、私は上述のエピソードを思い出した。学会でよく名前を見かける方々がコラムを載せていくのを眺めては、自分などには縁のない話だと言い聞かせつつ、リレーコラムというやり方に若干の反感さえ抱いていたのに、いざ次のライターをと声を掛けられると、私はAチームに抜擢されたときのように少し浮かれてしまった。そして、それまでBチームだった自分の“変節”に勝手に後ろめたさを覚えつつ、これまでの“Aチームのライターたち”のように気の利いたことを書けないなあと勝手にもやもやしながら今パソコンに向かっている。そういえば、学会の教育研修委員に誘ってもらったときにも、同じような一連の感覚を抱いた気がする。

 こんなことを書いていると、なんだか勝手に学会員の中にAチームを作り上げて分断を煽っているようにも思えてくるし、「勝手にAチーム扱いされて不本意だ!」、「私はBチームか!」などみんなから怒られそうな気もしてくる。もちろん分断を煽るつもりはないし、誰かを祭り上げたいわけでも優劣をつけたいわけでもない。ただ、当然だが集団への参加の仕方は人それぞれで、様々な濃淡がある。例えばある集団において中心的な役割を果たしてもいいという人(果たさざるをえない人もいるだろうが)もいれば、深くは関わらないでいたいという人もいる。その分野をライフワークにしたい人もいれば、関心領域の3番目か4番目くらいに捉えている人もいる。またベテランと若手、古参と新人では、その集団へのなじみやすさに差があるだろう。そういう濃淡のある集団において、“Aチームが内輪で盛り上がっているのをBチームの人が葛藤を抱えながら眺めている”という構図は、案外生じやすいかもしれない。数年前の研修会の際に開かれた学会員によるミーティングで似たようなことが話題になったように記憶している。

 この構図が生じていると思われたとき、そのことを口に出して語り合う場があるといい。語り合って互いの立場と思いをよく聞くことで、「Aチーム、Bチームそれぞれに葛藤がある」、「Aチーム、Bチームという2つでは括れないほど人それぞれに立場や思いがある」、「集団へのいろいろな関わり方があっていい」などいろいろな意見が出るかもしれない。集団への参加の仕方の濃淡は変わらなくても、少なくとも「よくわからない人たちがよくわからないことを考えているようだ」という状況ではなくなるだろう。もしかしたら、その集団にいてもいいと思う人がちょっと増え、集団を去る人がちょっと減るかもしれない。前述のミーティングでこの話題が出たときは少しドキドキしたが、重要な意義があったのだとあらためて思った。

 ここまで考えたところで、次の同窓会で球技大会のときのことを誰かに話してみようかと思ったが、「相変わらず面倒くさい奴だ」と思われるだけで終わりそうなので、やっぱりやめておこうと思う。同窓会の途中で45分×2セッションのグループでもやれば話せるかもしれないが、私もさすがにそこまで野暮ではない。

 

(日本集団精神療法学会公式HPリレーコラム2021年9月)

 

※PDFファイルで読む →リレーコラム47|岡崎さん2021年9月