.entry-title, #front-page-title { text-align: left; }

コロナを待たずに消滅してしまったグループを振り返る/瀧尻明子さん(リレーコラム50)

「コロナを待たずに消滅してしまったグループを振り返る」

瀧尻明子

ここ2年間は、自身の転職や新型コロナ感染症の影響によりオンラインも含めてグループらしいグループに全く参加していません。学会ホームページもめったに見ることがなく、リレーコラムの存在すら知らなかった私ですが、たまたま久しぶりの人からLINEメッセージが届き、嬉しさのあまり何も考えずにうっかりこの原稿を引き受けてしまいました。後で知ったことですが、50回目の節目だそうで、そうとわかっていたら絶対に引き受けなかったとつくづく後悔し、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。しかし、こんなことでもないと自分が関わったグループを振り返ることもありませんので、ここで4年間行っていた大学病院精神科病棟でのグループを振り返ってみます。

看護系大学の精神看護学担当教員として着任し、近所の総合病院精神科病棟で臨地実習していました。その年の秋、実習病棟の中堅スタッフさん2名から「入院患者さんのグループをやってみたいから一緒にどうか」と声を掛けてもらいました。私は「なんちゃって学会員」であり、グループのことをきちんと理解しているわけではなかったのですが、面白そうに思えたので、レクリエーション活動の一つとして見切り発車で気軽に始めることになりました。

事前に看護スタッフへの説明会を行いましたが、参加者は病棟師長と心優しい男性スタッフが1名のみ。初っ端から雲行きは怪しかったのですが、とりあえず看護学生と患者さん有志で作ったポスターをデイルームに貼り、学生とその受け持ち患者さん、言い出しっぺスタッフと私たち看護教員2人というメンバーで細々とスタートしました。

週1回、曜日を決めて30分だけ自由に話したいことを話しましょう、何を話してもいいし話さなくてもいいというおしゃべり会でした。場所は、廊下の途中にあるデイルームで、間仕切りも何もありません。通りすがりの人からは丸見えです。事前説明会からも推察できるように、とてもアウェイ感に満ちた雰囲気で、通り過ぎる人からは奇異な目で見られ、すぐ真横で入浴介助後のドライヤーをハイパワーの風量で使用され、検査や診察呼び出しの待機所として使われ、とにかく雑音や人の出入りが多かったのが思い出されます。看護スタッフからの協力は思いのほか得られませんでした。後々、若手スタッフに聞くと、上の人が忙しそうにしている時にゆっくり座ってお話し会に参加するなんて無理とのこと。言い出しっぺ看護師は2人ともそのうち異動やら退職やらで去り、後を任されたというスタッフからは不本意感が滲み出ていました。頼みの綱のもう一人の看護教員も寿退職で去り、そして誰もいなくなった、という状態。アウェイ感は増す一方で、轟音ドライヤー攻撃や診察・検査抜け抜け作戦は仕掛けられ続けました。しかし捨てる神あれば拾う神あり、です。ノリノリで参加してくれる同世代のPSWの出現により、一気に昭和生まれの患者さんらとベイシティローラーズや聖子ちゃんカット云々の懐かしい話に花が咲くようになりました。目玉焼きに何をかけるか、粒あん派かこしあん派か、などの食にまつわる鉄板ネタはハズレがありません。これをグループと称していいのか?との疑問も脳裏をかすめましたが、そのうち、このおしゃべり会を心待ちにする人もチラホラ出てきたのでこのままのスタイルを続けました。普段見せない患者さんの姿、初めて聞く話もたくさんあり、学生やPSWにとっては、貴重な情報収集の場になっていました。もちろん妄想めいた発言を繰り返し、他の参加者や学生が戸惑う場面もありましたが、一様に温かく「大変だね」「いろいろあるね」と受け入れてくれました。面白がって輪の中に座ってくれる看護師や医師が現れるようになり、このグループがようやく病棟に根付き始めたかも、と感じられたのが3年ほど経過したころです。

しかし平穏な日々は続きません。医学科の精神医学講座の教授やら病棟医長やらが交代したところで、「専門知識もない者がグループをやって患者さんに何かあったらどうするのか」という理由でストップがかけられました。それまで好意的に見てくれていた医師もだんまりでした。看護師長やPSWは粘ってくれたようですが、「何かあったら…」と「時間と労力をかけても収益につながらないことはするな」という雰囲気に飲まれてしまったようです。昭和の思い出や粒あんこしあんネタで一体何があるのかと疑問にも思いましたが、昔話で辛い記憶が蘇って病状が揺れることもあるだろう、グループへの参加で薬効を見極めるのを妨げることになるのだろう、などと中止したい派が考えそうなことに自分の思考を近づけるように努力し、存続を訴えることを諦めました。ほどなくしてコロナ禍に突入し、本格的にグループどころではない状態になって、すっかり尻の切れたトンボになってしまいました。

そして今、たまたまその病棟へ実習サポートに行っていますが、患者さんらは集まってお話しすることもなく、面会もなく、カーテンの中で一日を過ごし、時期が来たら退院していっています。コロナ禍で仕方ないとはいえ、これが精神科病棟の姿なのか、と悲しい気持ちになっています。しかしもっと残念なのが、働いている誰もが疑問に思っていなさそうなところ、またこの現状に何も声をあげることができない自分の不甲斐なさ、そしてこの状況に至る一因は自分の無責任さだったのではないかということ、です。

何かを始めるのは大変だと思っていましたが、続けること、きれいに終えることのほうがよっぽど大変です。今、私は転職してグループホームを運営しています。それこそ、始める時は地獄のような苦しさでしたが、満室になってみんなが平和に生活している今、途中で止めるわけにもいかず、続けるにも綱渡りのような危うさと付き合っていかなくてはなりません。ただ、誰からも干渉されないなか、生活の中にグループがある、生きることそのものがグループだと実感する日々です。

今回、このコラムを書いたことで、先のグループのまとめをしてきれいに終わらせておこうか、病棟に意見してみようか、と考え始めた自分がいます。当初はこれを引き受けた自分を呪いましたが、書き終えた今は良い機会をいただいたと本当に感謝しています。ありがとうございました。拙文にて失礼いたしました。

(日本集団精神療法学会公式HPリレーコラム2021年12月)

 

 

※PDFファイルで読む →「コロナを待たずに消滅してしまったグループを振り返る」/瀧尻明子(リレーコラム50)