.entry-title, #front-page-title { text-align: left; }

3.11震災と不在 ― 極私的東日本大震災体験の8年間/池田真人さん (リレーコラム18)

2021年11月16日

3.11震災と不在 ― 極私的東日本大震災体験の8年間

池田真人

 それは決して大きくはないが、鰻か大蛇がうねうねとうねるような、終わるかと思えば終わらない、長い揺れの時間であった。

 私は京都四条烏丸近くの私学会館の2階か3階の会議室にいた。2011年立命館大学でのJAGP京都大会前日14時からのプレコングレスの事例検討会のスーパーバイザーとして、なけなしの集中力を注いでいた。私にとっては集団精神療法学会でのスーパーバイザー・デビューの事例検討会だったのである。そこで開始45分余りして、遠く地の底からの震えが京都にも及んだ。総勢30名ほどだったろうか。参加者の一部に動揺が見えたが、震度3程度の地震で、事例検討の進行を止める理由はなく、1分ほどの中断で再開した。司会者からのメッセージは特になく、私は発表者にレポートを前に進めてもらおうと躍起になっていた。数人の携帯電話のメールが鳴るか振動したように思う。

 事態が東北の津波で大変なことになり始めていることを知ったのは、15時半ごろの休憩時間である。その日のプレコングレスの他の事例検討会や体験グループの参加者が会館の1階ロビーの大型テレビを幾重にも取り巻いて注視し、驚きの声が上がっていた。休憩時間が終わり、事例検討を再開したものの、身内への連絡や帰京、帰宅を決断した方もいたと聞く。それでもほぼ全員で会の後半を進めた。事例検討に前のめりの新米スーパーバイザーには、地震とそれによる検討会のメンバーの動揺を視野に入れ、事例に重ねる余裕がなかったのである。

 検討会は17時に終わった。私はその日のグループ事例に啓発されたし、まずまずスーパーバイザーの役をこなせたことに安堵していた。事例検討の司会者とスーパーバイザー、体験グループのコンダクターとコ・コンダクターを集めて、研修会の事務局が20分程の振り返りの会を持ってくれた。そこでも震災のプレコングレスへの影響、大会への影響は主題にならなかったように記憶する。散会は17時半ごろ、ロビーのテレビは一層の津波被害を伝えていた。

 四条通に出て、携帯で千葉県内の自宅に電話するがつながらない。メールにも返信がなく安否がわからない。平日の金曜だったので、都内の職場の病院に電話してもつながらない。数時間後に家族への電話で無事を知った。次いで翌日の学会初日の事例検討の事例提示者である同僚に電話が通じ、交通機関が遮断され、帰宅困難となった看護師や受付やソーシャルワーカーが精神科外来の各室に泊まり込むべく陣取り、災害時用の白米や炊飯器や缶詰も役に立っている、当人は事例検討会用に良質紙でのコピーに銀座のビルの上階まで出向いた折に震度5強に襲われ、死ぬかと思ったが、無事に病院に戻って家人の車の迎えを待っている、道路事情も悪いとのことだった。

 翌日同僚は京都に来て、予定通りグループ事例を提示した。予定されていたスーパーバイザーのA先生は都内からお越しになることができず、学会新理事長のB先生が代役を務められた。司会者も、B先生が廊下を歩いていたC先生に声を掛けられて急ごしらえの代役となられたと聞いた。事例のグループの創始者でコンダクターやコ・コンダクターを務めたDさんも京都に来ることができず、欠席された。

 大会長や事務局の方々、理事長、専務理事の方々のご奮闘と心労はいかばかりだったかと思うが、私は大会初日の体験グループのコンダクター役をこなし、翌日は自主ワークショップの事例検討のメンバーシップを楽しんだ。前者の体験グループでは、セッションの終わりにあるメンバーが「何か怖いですね」と述べたことに、コンダクターが怖いのか、コンダクターとコ・コンダクターの間のコンフリクトを感じて怖いのか、私は憶測しつつも何の反応もできなかったことに、グループ終了後も引っ掛かりを覚えたが、地震、津波、死、そしてまだ明るみになっていなかった原発放射能禍が、グループに、そのメンバーに影を落としていたとしたら、また違う力動を生じ、それを私は否認するか、それに不感であったと言えよう。後者の自主ワークショップでは、それまで10年余りのあいだ柱となっていたスーパーバイザーが最後の出席となるかという別れのセッションであり、そのスーパーバイザーがグループに対して、またコア・メンバーに対してパラノイックになることがあったという妄想-分裂態勢の告白も又、地震、津波、死、来るべき放射能禍を背景としての無意識的連想であり、精神疾患患者への対象関係論的アプローチを自己洞察の開示を以て教えて頂いたのではないかと今になって振り返るのである。

 最後のシンポジウムを終えて、壇上の大会長は涙ぐんでおられたように見えた。1995年の阪神淡路大震災後の本学会員による震災を語るグループが、2011年3月11日を機に新しい局面に入っていることは、会を担う方々から先日の三鷹ICU での本学会大会でも報告があった通りであろう。

 2011年3月13日、京都学会を終え、帰京の新幹線も難なく、家族の無事を目で確かめた。しかし翌月曜朝の「計画」停電により千葉の自宅から職場の病院まで3時間を要し、福島原発津波禍暴発、放射能禍とたちまち渦中の辺縁に身を置くことになる。とは言え、地震当日関東に不在であったことは、震災被災者やその支援者と体験共有のための欠落感を私に残し、日常臨床現場での関与にとどめて未だに福島浜通りや仙台石巻、三陸海岸地域に足を向けていない。

 表題で風呂敷を広げた割には、8年間のうちの最初の3日間の詳述にとどまり、不在とその代償、広義の臨床実践に話が及ばず、紙数は優に尽きている。

 バトンを福島での実践家に渡すべく筆を擱く。

 (集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2019年4月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム18「3.11震災と不在」/池田真人