グループと私
水田博子
私は足が遅い。大抵ビリから2番目だ。なのに小3の運動会ではどういう訳だかリレーの選手に選ばれていた。遅いうえにバトンを落っことし、果たしてチームはビリになった。情けなかった。珍しく商売を抜けて見に来た父は、数日私と口を利かなかった。大方の運動は地面で急いで足を動かすから難儀したが、水泳には馴染んだ。速くも上手くもないけれど、水の中は清々した。
グループも、普段の地面とは違う所で、自分の在り様を味わう。水は怖くもある。輪の真ん中の深い淵に、吸い込まれそうな時もある。
リレーのバトンから、繋ぐ・繋げる・繋がることに心が向いて、13年も前の父の葬儀が思い浮かんだ。参列された方々との、わずかな時間のグループの・ようなもの、の体験だ。
喪主の私を何かと手助けしてくれる方がいた。植木屋の御主人ということは知っていたけれど、さほど父と親しかったようでもなく、何故よくしてくれるのか不思議で、そう聞いてみた。「いや、大して親しくはなかったよ。Aさんがあなたのお父さんを大事にしてるから。」と仰る。Aさんは農家のご隠居で、父の恩人だ。昔から長老感が漂う、笠智衆的な人だ。
こういう話だった。植木屋さんのお父さんは、新妻のおめでたを知らないまま出征し、戦死されたという。成長した植木屋さんは、はたちそこそこで死んだ自分の父親がどんな男だったのか不安で不安で、方々に尋ねてみたけれど、曖昧な答えしか貰えなかったそうだ。ただAさんだけは「お前の親父は誰よりも立派な挨拶をして兵隊に行ったんだ。だから何にも心配するな。」と言ったという。「だからAさんの為にできることをすると決めている」と植木屋さんは話してくれた。Aさんは「俺は近衛兵だったから外地には行かなかったのよ」と言った。それに続くそれぞれの人の短い語りに私は圧倒されていたと思う。
最後は父の思い出話になり、朗らかで面白い男だったけどちょっと迷惑な人だった、という満場一致の合意があり、グループの・ようなもの、は笑いで終わったと思う。
出棺の時、泣いている私の息子に、Aさんが何やら言葉をかけてくれていた。Aさんは大学生の長男坊を水の事故で亡くしている。当時、訃報を聞いた私の父は泣いていた。子どもの私は、お父さんも泣くんだな、と思ったのを覚えている。
いくつもの死が、いくつもの生を結び、繋いでくれている。
今に戻る。近頃私は、グループを頼りにしたい気持ちが強くなっている。声を聞かないトレーニー仲間のことが気になる。自分の依存の問題かとぐるぐるしている。同時に私はちゃんとグループと繋がろうとしているのかな、大事にしているかな、と胸に手を当てて考えている。
私は“繋がる”というと、なんだか気持ち悪さや胡散臭さを感じてしまう。求めているけれど、安っぽいそれはご免だし。そんなことを超えた、どこに出しても恥ずかしくない、私達の本当の繋がること・繋ぐことをグループで見つけていきたい。
野中さんのバトンをちゃんと受け取れたかな。
今度は落とさないで渡したいな。
日本集団精神療法学会公式HPコラム 2026年3月
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