随想 -グループ立ち上げ、いまむかし-
野村学
学生時代に「グループで自分を問い直し、広げる」ことに魅せられて以来、この方法をずっと自分の軸の一つとして心理職をやってきた。いま思うことをつれづれに書いてみたい。
精神科の病棟でグループを始める時は、すでに興味を持っている仲間や上司がいるとか、それが院長や理事長だという特別な場合を除いて、どうグループをアピールするかが最初の仕事になる。話したり、食べたり呑んだりのお付き合いもしつつ、学会で発表したり、集団精神療法学会の年次大会や研修会に連れて行ったり(これはとても有効だったのでお勧めしたい)、あの手この手でグループを売り込んだ。時にはゲリラ的にいきなり現場でやってしまい、そのインパクトを訴えたこともある。(とはいえ裏の根回しは重要)
グループが始まると表現や交流を通じて、私たちの中に明確化が起こり疑問が増える。患者さんの生気とスタッフの関心が増えて、病棟はちょっと騒がしくなるので、場合によっては面倒な事態と思われることもある。もう少し余白のある、悪くないタイミングなら、不思議なことにだんだんとグループが増えていく。または申し送りやOT活動がグループっぽくなっていく。こうして感染拡大したら最初のグループの運営も楽になってくる。うまくいくことは半分くらいだったが、3割よりは打ってきたと思う。
ところがこのところちょっと変わってきた気がする。かつては設定すれば大体話し合いになった。何というか、着火すれば燃えたし、難産でも生まれれば育った。言いたいことはたくさんあるんだなあという実感が比較的すぐに得られていた。今は、自分をあまり開かないというか、リスクを冒さないのが基本的な姿勢だ。グループを動かすために背中を押し続けないといけないような感覚がある。
例えばつい、イベントのMCのように場をリードしてしまうことがある。すると楽しく、一見活発に進めることができる。(どんどん上手になるので注意が必要)けれどもグループに本流のようなものができて、相互作用の自由度を狭めてしまう。患者さんの側からの別の話はなかなか出てこない。なので引っ張り過ぎないこと、フリートークの時間を大事にすること、複数のスタッフで行いレビュー(振り返り)をすることなどを心がけている。積み重ねれば少しずつグループが能動的になっていくように思う。
もう一つ意識している注意は答えを急がないことだ。今どきは色々な理論・技法が進展または新生し、患者さんもスタッフもよく知っていて、専門用語が普通にやり取りされる。けれども概念は動きを止めてしまう面があって、怒りと哀しみ、憎しみとガッカリなど複雑な気持ちをキッパリと切り分ける性質がある。なのでその時その時のグループによるが、なるべくひとりひとりの素朴な語りや日常的なできごとをそのまま話し合うように心がけている。言うに言えないことをそれぞれ思う短い沈黙も、少し重たいけれど大事な時間だと思う。
つまりは「ヨコの関係で」「感情を大切に」という、初学の頃に習ったグループの原則なのだが、今の方があの頃よりも意識して努力している気がするのはなぜだろう。手ごたえややりがいがありつつも、以前より疲れや「アウェー」感が増したように思う。私の個人的な事情(投影)もあるだろうが、今の時代の不適切と不愉快を嫌う空気の影響も大きいのではないか。どうにも思ったことを言いにくい…。オンライン技術の発展、感染予防も加わり、集まって話すことのそもそものモチベーションが全体に低下したように思う。
私たちの目標や役割は変わっていくのだろうか。学校の仕事ではさらにそう感じる。我慢や強制をとにかくやめていく流れで(そりゃあそうだが)、分離教育・個別対応の人気がますます高くなっている。先日スクールカウンセリング先で「これからの社会性とコミュニケーション」について職員研修で話し合ってみた。先生方にはまあまあ好評だった。これからもいろんな意見を時間をかけて交流していきたい。どうやらそれだけでもないぞとか、そうかこれが肝心なことかといった体験を、これまでもたくさんグループでしてきた。
日本集団精神療法学会公式HPコラム 2024年10月
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