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リレーコラム新企画 No.10 田辺さんへの質問とその回答

2022年12月15日

田辺さんへの質問とその回答

体験グループでメンバー体験をし、自己理解を深めることが、臨床場面(グループの実践)にどのように活きるのか、具体的に聞かせていただければと思います。

田辺さんからの回答

体験グループは、コンダクターからグループ運営のテクニックを学びとろうと考えて参加すると、あまり良いことがない。グループでの経験が、コンダクターとしての技術の改善に直線的に結びつくことは、そう多くない。長い沈黙で、グループを葛藤状態に放置することが、グループセラピストの役割のように誤解した人もいる。とにかくメンバーとして、体験すること、感じることが第一である。自分の感情や考え方の傾向、表現の仕方の巧拙、とりやすい防衛などに気づけたら大儲けであるが、グループを体験した自分が引っかかっているsomethingを引きずったまま日常の現場に戻ることでも良いと思う。

そのようなことを前提としつつも、以下では体験グループの過程で得た自己理解が、その後の臨床場面の展開に良い影響を与えたケースを振り返る。

1)前回コラムの例に掲げた長い沈黙下での「父息子対立の回避」への連想の中身は、「社会への見方が違う父親と正面から対立することは家族関係を脅かす。自分の価値観は譲れないが、母親を中心とする平和な小さな家族集団に亀裂をもたらすことは本意ではない」。そういう自分の逡巡を改めて思いださせた。そんな程度の体験であっても、自分がコンダクトしているグループの対立的局面での対応に生きた。あるセッションでのAとBの対立的な議論の中で、「困ったような顔で沈黙しているメンバーC」に焦点を当てたくなったのである。

「Aの考えとBの考えのどちらが良いか、それとも、それ以外の良い考えがあるか」とCに尋ねるのではなく、「今、AさんとBさんのやりとりを見て、どんなことを感じていた」と水を向けた。対立的な空気の中で何を感じていたかを話してもらったのだ。するとCは、グループが破壊的にならないかと恐れ、困っていたと答えた。すると「私もそう思っていた」とDも発言し、グループが変化して動き出した。後々のセッションでは、C自身の原家族体験に焦点をあててみたりもした。

2)メンバー体験での「自己理解」は、グループを体験するプロセスで起きるから、しばしば他メンバーの振舞への理解(他者理解)との相互関係がある。

よくある「沈黙」の体験のことで述べる。沈黙が長くなると耐え難くなって、どうにかしてほしいと依存的になることがある。その時、閉眼している他メンバーを見て、「自分はあの人のように閉眼して逃避するまではできないな」と思う。余計に何とかしなきゃという思いが刺激される。やはり自分は集団内のトラブルや対立を看過できないタイプなのだ。これまでの人生でもそうだったなと改めて思う。しかし、今、どう振舞うべきなのか、良い言葉も見つからない。

その時、他のメンバーが、「まだ5分しか経ってないのに、15分も20分もたったように重く感じる。重い感じがして肩はバンバンになっている」と沈黙の経験を表現した。なるほどと思う。今、起きていることの「感情の言語化」や「身体感覚の言語化」が自分は不得手だったのだ。

このメンバー体験での気づきが、治療グループでの対応力の柔軟性につながる。

例えば、臨床のグループでも、メンバーたちの最初の沈黙に対処しやすくなる。「誰も話さないと1分が5分にも感じられちゃうね?」などの投げかけや、「黙っているときに何を感じていた、どう感じていた?」という介入ができるようになった。

3)もうひとつ例をだしてみよう。
体験グループで、あるメンバーから出された解釈が「ほう、なるほど」と思う時と、「違うなー、なんでそこなの?」と疑問符がつく時がある。
自分が受け容れられない、他者からの解釈への反応に、「あの人は治療者役割から降りられない人だ」として終わる場合も多かったが、あるとき自分にベクトルが向いた。

他メンバーからの解釈が煩わしい、受け入れられないなと感じる自分はどうなのか。早すぎる解釈の直面化に反応して、単に否定していて良いのか。自分も精神療法のプロセスで、力動的な説明をすることで自分には治療能力がある、と思いあがっていたことはないか。いずれにしろ、今の自分はいらだっている。グループ全体も感情が波立っているかに見える・・・。

そういう体験が、遺族のグリーフワークのグループのコンダクトでの落ち着きにつながった。

「可能な限り、解釈や説明は控えて治療的野心はもたない。専門性が求められるタイミングで、メンバーからコンダクターへの求めが言語化された時に、自分ができる範囲で応じよう。グループは、ゆっくりと時間をかけて、それぞれが個々の想いを話し続ける。このグループは、まずは、それでよいのだ。やがて個人の情緒の調べが協奏的になっていく。それが、ここでは一番大切であり、基本なのだ」という姿勢になった。

自分が、コンダクターを退任するときに、参加者から「ただただ聴き続けていただけたことが、自分の救いになりました」とのフィードバックをもらった。

このコラムの質問で求められた連関性を示す具体例はそう多くない。ただ言えることは、トレイニー体験を20セッション程度、あるいは2-3年程度続けると、「クライエントだけでなく、自分も、不安、怒り、葛藤をもつことがあるが、それは恥ずかしいことではない」という当たり前のことを体験的に理解する。自分自身のもやもやしたものが何かを言語化し、力動的な面から理解し、自分の感情のあり方に気づく、それがグループで行える。そういう信頼感ができてくるのだと思う。

筆者の体験Gのトレイニーが、皆、グループ臨床に従事しているとはかぎらない。臨床場面を直にみることもほぼない(事例検討はある)。しかし続けている人には、セラピストや支援職として大切なもの、しなやかさやタフさ的なもの(いずれも、これ以上はうまく説明できない)が徐々に身についていくなーと感じるのである。

 

日本集団精神療法学会公式HPコラム No.10 2022年12月)

※PDFファイルで読む →リレーコラムNo.10 田辺さんへの質問と回答

 

広報委員より

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