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「わきまえる」こととグループと/高橋美紀さん (リレーコラム42)

2021年11月14日

「わきまえる」こととグループと

S&Cサイコドラマ・ラボ   高橋美紀

 2月のはじめ、オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長はオリンピック委員会の会合で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「女性は競争意識が強く誰か一人が手を挙げると自分も言わなくてはと思うのだろう」などの女性蔑視ともとれる一連の発言を行い、辞任に追い込まれた。
 このことについては、多くの識者、批評家が各メディアを通じて意見を発表しているので今更私などが考察するものではないが、氏の一連の発言の中で特に気になった一言がある。
「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます」というものだ。
 この一言に強い刺激を受けて、私の中には様々な想いが湧き上がってきた。2か月近く経った今でも折に触れて考え続けている、そんな私のグダグダ話に少しの間お付き合いください。

 だいたい「わきまえる」ってどういう意味だろう?大辞林では【弁える:物事の違いを見分ける。弁別する。区別する】とある。このままではピンとこないが使われているニュアンスを吟味してみると、どうやら周囲に対する自分の立場を適切に判断し、置かれている状況に合わせて振舞えることを指すようだ。
 では自分の立場や状況はどうやって判断するものなのか。多くの場合それは暗黙の了解の中で出来上がっていて、自分以外の人には明白なことのように思えるけれど誰かに尋ねてみても「自分で考えろ」と返ってくるような、捉えどころのないもののように思われる。

 私の父は転勤の多い仕事で、私は家族が福岡、広島、東京、大阪と引っ越しを繰り返していく中で育った。体験した方はご存じだと思うが、転校生は新しいクラスの空気になじむまでしばらく憂鬱な時間を過ごさねばならない。転入した先のクラスには独自のローカル・ルールがあるが、たいていの場合言葉で教えてもらえることはない。クラスのルールはもう出来上がっていて、皆ルールがあるということも意識していないからだ。いきおいクラスの異分子である転校生は試行錯誤しながらそのルールを探りあてる羽目になる。

 今思い返してもいろんなルールがあったなあ。先生のすることに質問してはいけない。男子と気やすく話してはいけない。何度も手を挙げてはいけない。先生と気軽に話してはいけない…しつこく覚えている私も私だが。前の学校ではOKだったことも次の学校ではNGだったり、その逆だったりすることもしょっちゅうだ。
 東京の小学校から大阪に移って私が中学校に入学した後、大学卒業までの11年間は父が単身赴任となったために大阪で過ごすことができた。高校に入学して初めて私は一からクラスの空気が作られる中に身を置くことができ、その心地よさを存分に味わった。

 だがしかし、東京に出て就職すると状況は一変した。40年近く前のことなので今とは事情は異なると思うが、当時大阪人は東京の人にとって強烈な異分子だった。思ったことは口にする、声は大きい、なれなれしい。おおかたそんなところだろうと想像するが、そうした批判はあまり口にされることはなく、ちょっと困ったような笑いを薄く浮かべて何となく遠巻きにするだけだ。またあちらでOKだったものがこちらでNGだ。ホンマかなわん(涙)文句があるなら言うてくれ、というのが当時の心境だった。

 私は寂しかった。学生時代に体験したホンネのやり取りが欲しかった。今の私はサイコドラマを主な仕事にしているが、そもそも東京で何か息がつけるグループに入れないかと探した結果出会ったのがサイコドラマだったのだ。
 自分の思いを自由に表現できるサイコドラマに私は夢中になった。あちらのグループ、こちらのグループと時間の許す限り出席し、ディレクターのトレーニングを受け、日本集団精神療法学会に入り、ついには自分の職業にまでしてしまった。けれどその中で私はどのグループにもやはり無形のルールの存在を感じるようになった。そのルールは、言葉にされることもあったし、無言のままで空気に漂うこともあった。自分ばかり話してはいけない。注目を集めてはいけない。出すぎてはいけない。順番を守らないといけない。目上の人に口答えをしてはいけない。

 30年近く経った今、当時は過渡期だったのだとわかる。自由にふるまったり思ったままを口にすることをよしとするのは新しい価値観だった。グループの中や外で新しい価値観と古いルールとがモザイクのようにないまぜになっていた。
 少なくとも今の日本集団精神療法学会では、当時よりも自由な発言を許されているように感じられる。
 ルールは変えることができるのだ。
だが私たちの中から古いルールが消えてしまったわけではない。古いルール-それを文化と言い換えてもいいかもしれないが-は言葉にしてはっきりと示されることが少ない分曖昧なまま、育った家庭や地域で、学校で、職場で私たちの中に蓄積され再生産される。

 森氏は権力がある人が恣意的に使える「わきまえ」という言葉を、皆が共有している絶対のルールのように発言した。私にはこの発言は単に女性蔑視にとどまらず、自由な意見交換に対するアンチテーゼのように感じられる。集団の和はそのメンバーの自発性を抑えることでのみ成立すると言わんばかりだ。
 これは森氏個人の問題ではない。同じような発想、発言をする人はいまだに大勢いる。
一方で初めての場所に出た時には、私の中にも古いルールが存在することが感じられる。ここで発言してもいいのだろうか。このようなことを話して、はじかれることはないのだろうか、と心の声はささやく。

 自らを縛るその声はとても強くて振りほどくにはひと苦労する。サイコドラマのディレクターとして、主役やグループメンバーには「あなたの本当の気持ちを表現して」とアプローチしている私なのに。
 そんな時私は昔読んだ漫画のセリフを思い出す。「洗脳は効いているさ…今でも従えと私にささやく…その声が私に誰と闘わなければならないのかを思い出させるのだ!」(マップス:長谷川裕一著)

 サイコドラマのディレクターをしていて、グループに恐れを抱いている参加者に出会うことは多い。グループの中で何を発言して良くて、何を発言したらいけないのかはっきりして欲しいという方もいる。
 グループの中での自分の立場や状況や発言のルールが分かっていれば、不安に襲われることは少なくなるかもしれないけれど「あなたの色に染まります」と言われているみたいだ。

 異質な者同士が出会って一緒にグループを作り上げるのがだいご味なのに(と私は思っている)。きっと私はそれを伝えたくてサイコドラマを続けているのだろう。「古いルールは絶対唯一の基準じゃなくてみんなで変えていいんだよ」と。

 グループの和は結果ではあるかもしれないが目的なんかじゃない。皆が同じである必要なんかない。それぞれが自由に感じ、表現し、互いの違いを認める中で生みだされるもの。それこそが本当に大事なものなのだ。

(日本集団精神療法学会公式HPリレーコラム2021年4月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム42 「わきまえる」こととグループと / 高橋美紀