リレーコラム33 岡島美朗 2020年07月

更新日:

「オンラインで得られるもの・失われるもの」

岡島美朗

近頃、自宅でオンラインの会議や研究会に参加することが増えた。会議中に幾分受動的な気分になり、PCを眺めながら、なんとはなしに周りを見回すと、机の奥の書類箱が目についた。20年前に引っ越して以来ただそこにおいてあるのだが、一番下の段には手紙が入れてあったな、と思って開けてみると、中学から高校にかけて文通していた相手からの手紙が大量に出てきた。手紙の多くは「お手紙ありがとう」「返事が遅くなってごめん」などと書き出されているので、自分が出した手紙に返事をくれたものらしい。便せん4~5枚に及ぶものもあるところを見ると、自分も相当長い手紙を書いていたと見える(相手も勉強や部活で忙しかっただろうに、迷惑な話である)。

その頃、確かに頻繁に手紙を書いていた。定期的にレターセットを選び、当時切手を集めていたので、どの記念切手を貼るか、時間をかけて考えたはずだ。なるべく書き損じのないように一晩かけて手紙を書いた。「夜書いた手紙は、特に感情的なものは翌朝すぐに出さず、読み返したほうがいい」と諭すエッセイをどこかで読んだので(最近、外山滋比古の本にこの文章を見つけた。別にそう感情的な手紙を書いたわけでもなかったのだが)、しかし登校前に読み返す時間は取れなかったから、次の夜に読み返し、さらに翌朝投函していた。その後数日は返事を心待ちにしていて、学校から帰って机の上に封書を見つけた時のワクワクした気持ちは今も思い出せる気がする(中高年の男性が言うこととしては、かなりキモいと自覚はしている)。

この頃、とんと手紙を書かなくなった。仕事上の用事はもちろん、友人の様子が気になって連絡を取る際にも、使うのはe-mailかLINEかmessengerである。思い立ったら出先だろうと移動中だろうとすぐに書けて、編集できるので書くのも気軽だし、簡単に繰り返しやり取りができるので、そんなに長い文章は書かない。多くはその日のうちか、翌日には返事が来るので、待ちわびる時間もそうはない。圧倒的に手軽、便利で、もうメールのない世界には戻れないな、と思うのだが、その便利さの故に、相手の様子や生活をあれこれ想像して過ごすことが少なくなったとも思う。手紙を待つ間の、無駄と見える時間は、ある種の豊かさを持ち、創造性を育んでいたのではないかという気もする。

さて、未曽有のパンデミックの渦中で、当初は平生の活動がほとんど中止され、少なくとも時間的には生活に余裕が生まれていたのだが、それが長引くにつれ、できるものはオンラインで、という動きが強まり、結構忙しくなってきた。オンラインでグループなんてできるのか、と思っていたが、実際にやってみると思ったより抵抗なくグループの雰囲気に入り込めた。システムのトラブルさえなければすべての人の声が聞き取りやすいし、表情はむしろはっきり見えるので、情動的な反応も意外に起こりやすいと思う。先日、グループのメンバーが急に参加できなくなり、しかし、その人にとってグループの関わりが必要だと思われる事態が生じたので、対面でのグループを急遽オンラインに切り替えてグループを行ったことがあった。その是非は十分考えなくてはならないが、こうしたことが可能になる圧倒的な利便性は、オンラインによって得られたものといえる。

では、オンラインでグループを行うことで失われるものはあるだろうか。H. Weinberg博士はオンラインセラピーについての講演で、オンラインでのグループは、体の一部が二次元で見えるだけであり、においは感じられず、視線がどこを向いているかもわからない点で「からだのないグループ( disembodied group)」になってしまうと指摘している。これに加えて、私が思い出すのはグループセラピストSさんの発言である。オンラインでのグループの可能性について話し合った際、Sさんは自分には抵抗があると言い、「グループに参加するために会場に向かっているあいだ、今日のグループがどんなだろうといろいろ考える。あの時間が私にはとても大事なのです」と語った。手紙を待つ間と同様、オンライン化とそれがもたらす効率化が進むことで、こうした時間のすきまは失われてしまうかもしれないが、そのすきまに情感や豊かさが伏在していることを、忘れないでいたいと思う。

ところで、数十年前の手紙を今頃開いたのは、自室の机の上でオンライン会議が開かれたゆえである。その意味では、このコラム自体オンラインによって得られたもの、と言えなくもない。

 (集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2020年7月)

※PDFファイルで読む → リレーコラム33 「オンラインで得られるもの・失われるもの」 / 岡島美朗

 

Pocket