“ちゃんと”しなきゃ/山本薫さん (リレーコラム23)
“ちゃんと”しなきゃ
山本 薫
“ちゃんと”とは・・・1)きちんとしているようす 2)正しくて、まちがいのないようす 3)しっかりしているようす (三省堂 例解小学国語辞典 第六版 より)
二十数年前、初めてトレーニンググループを受けた。月1回の連続セッションである。今まで私が参加していた同職種(OT)の勉強会ではなく、お医者さんや心理士さんなど多職種が混じっているグループだと聞いた。沢山の人が集まるそうだ。
「“ちゃんと”しなきゃ。」まず一番に考えた。
幼き頃から、「“ちゃんと”しなさい。」と、親や学校をはじめ多くの人に言われてきた。
保育園や小学校では、“ちゃんと”した姿勢で立ったり座ったりじっとしていられなかったらしく、骨や筋肉の疾患を疑われ、いくつかの整形外科に連れて行かれた。よくランドセルを忘れていた。記念撮影はブレていた。気が付いた事や考えた事は、すぐ質問したり意見したりして、なかなか口が止まらなかった。
高学年に入り、その様な事がまずかったのか、それとも担任と馬が合わず反抗心むき丸出しだったのがまずかったのか、担任から親にしょっちゅう電話が来ていた。
「薫さんはこのままだと“ちゃんとした中学生”になれませんよ。」
え? 成績も悪くはないのに、友達沢山いるのに、犯罪も犯してないのに。
何をちゃんとしなければならないのだろう?
東北のアマゾンとも例えられる片田舎、子供達にほぼ選択権はなく、エスカレーターの様に地元の公立中学校へ進学するわけだが、このままだとどうなるって? “ちゃんとした中学生”ってどんな中学生よ?
そして私の席は、担任の教壇の隣、しかもクラスメイトの方を向いて座る形になっていた。
え? ただ座って皆を見てればいいの? 黒板は見なくていいの? これは罰なの?
“ちゃんと”してないと、理由なんかはどうでもよくて、外されていくんだ・・・
さて、トレーニンググループ参加にあたり「“ちゃんと”しなきゃ。」と考えた私。
“ちゃんと”する事で、知らない人達の集まりでも受け入れてもらえるかな?“ちゃんと”してないと、コンダクターからもメンバーからも外されるんじゃないか?という不安を持ちながら、まず考えたのが、実に浅はかだが外見を“ちゃんと”する事だった。
きっちりとした形の黒いワンピースでシンプルな少しヒールのある靴を履き、髪をまとめて参加した。
姿勢正しく、じっと座る事を心がけた。言葉遣いだって“ちゃんと”しなきゃと、丁寧語を使うように気を付けた。
中身は?・・・“ちゃんと”した中身ってどうすればいいんだ? どんなのが“ちゃんと”しているという事なんだ? そんな知識も教養も持ち合わせてないぞ。なんだか無理な気がする・・・という事で、とりあえず、外見だけは整えて参加する事にした。
そして初参加。大きな輪になって色んな人が座っている。でも、あれ? 思っていたのと違う。色んな人がいるのだ。
もしかして、“ちゃんと”するしないは、ここでは大した事ではないのかもしれない。
それと、「今、感じたこと本当に話しちゃっていいの?」目からウロコ、いや、体からウロコの様な感覚。
更に、ウロコは剥がれるのに毎回何かがつながっている感覚。その時その時を感じ話すのに、なぜこんなにも引きずりつながっている様に感じるのだろう。いつの間にか、比較的早くに私は“ちゃんと”する事を止めていた。“ちゃんと”してなくても、このままの加工なしの私でも、話せたり過ごせたりする場があったのだ。
“ちゃんと”してないと受け入れられないのが世の常だ。と、私自身は思いたくなくても、染み付いていたのが参加する前だったと思う。でも、決して適応的でなくとも、お作法をしっかりと守らなくても、その人その人が受け入れられる体験をしていける場があるんだ。それを自分達でも作っていけるんだと思えるのが集団精神療法なんだなと考える。
多分、集団精神療法と出会ったおかげで、自然とそのまま成長出来ているのではないか?と思う。
生きてる中で、かなりありがたいものに出会えたんだな。と改めてコラムを書き感じた。
(集団精神療法学会公式HP リレーコラム 2019年9月)
※PDFファイルで読む → リレーコラム23「“ちゃんと”しなきゃ」/山本薫