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リレーコラム「グループと私」No.9

グループと私

小川悠介

最近、グループであまり話さなくなった。もともとおしゃべりなほうではないが、言葉を発するまでに、時間がかかるようになった。普段、社交性が求められる場面では会話をしているし、一応、社会生活を営めている(と信じている)ので、傍から見れば、それほど大きな問題ではないのかもしれない。

 しかし、メンバーのひとりとして座る、体験グループ(治療グループ)では、このままでよいのかと思うことがある。グループでの話に興味がないわけではないし、引きこもっているわけでもない。すごく話を聴いている。さまざまなことを感じたり、考えたりもしている。それでも、言葉が出てこない。なぜこんなにも時間がかかるようになったのか。

 最初は、帰国して疲れ切っているからだと思っていた。鬱なのかもしれない、とも思った。あるいは、グループのプロセスとなにか関係しているのか、なんて考えたりもした。しかし、どうやらそれだけではなさそうである。

 ひとつ気がついたのは、日本語という母語を用いることによる難しさである。うっかりすると、十分に理解していないにも関わらず、曖昧なままコミュニュケーションが展開されやすい。わかりあえないことは、わかりあえない。しかし、言語や文化が近いがゆえに盲目的になり、まるでわかっているかのように錯覚したり、されたりしてしまう。どんなに似たコンテキストの中で生きているとしても、私たちはひとりひとり異なる。わかりあえない切なさやもどかしさ、私たちのあいだにある違いを和らげるための表面的な会話を、体験グループという場面でも無自覚に再演したいとは思わない。そう考えると、私はいま、グループの中にいながら、私を、そして、他者を見つけていくプロセスの中にいるのかもしれない。

 この感覚は、体験グループの時間を飛び出して、日常の臨床場面でも感じることが増えた。私たちは、患者さんが語ること、あるいは語らないことを、どのように理解しているだろうか。専門用語に置き換えたり、自身の体験に引き寄せたりすることで、理解したつもりになってはいないだろうか。患者さんが語る言葉は、本心なのだろうか。語らない、あるいは語りえないものを、わかったつもりになってはいないだろうか。言葉が生まれるまでにある、五感では感知できない歴史や心情に、私たちはどれほど思いを馳せているだろうか。この問いは、患者さんだけでなく、ともに働く同僚や、心の集合体としての、チームや組織にも当てはまる。そんなことを考えながら、私はいま新しい現場で、ひとりの精神科医として働き始めた。この現場では、まだコンダクターとして構造化された治療グループを運営してはいないが、今のところ大きな問題だと思っていない。

 とはいえ、体験グループで言葉が出てこないことには、やはり少し困っている。ずっと黙ったままでいても、グループはやがて終わってしまうからだ。もしかしたら、人生も似たものなのかもしれない。まあ、それも仕方がないのかもしれない。しかし、どこか寂しい。これからも私はグループに座りながら、言葉が生まれてくるのを待ちたいと思っている。

日本集団精神療法学会公式HPコラム 2026年5月

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