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リレーコラム「私のグループとの出会い」No.2

「私のグループとの出会い」

勢島奏子

小学校の入学式の日。私は、ひときわ晴れやかなその空気になんとも馴染めなかったのでした。水疱瘡の病み上がりの体が人目にさらされる窮屈さが、子供ながらにありましたし、受付では名前を間違えられて、へんちくりんな響きで呼ばれてしまいます。校庭で全員の写真撮影を待つあいだも、春の日差しはすでに暑苦しく、立ちっぱなしもキツく、だからといってどうしようもなく、気詰まりにそこにいたことを覚えています。

背の高いやさしいおかっぱの子、なぜかずっと笑っている歯抜けの子、スカートめくりばかりしたがる坊主頭の子。担任の先生の突き抜けるような明るい声。競って駆け上がる通学路の坂道。掃除の時間、給食の時間。みんなの中で自分ひとりだけできないことがあって立たされていた、顔が熱くなる時間。ぎこちない春がすぎて夏が来るまでの間に、手ごたえのある記憶と感情の一群があって、それらは私がその場に確かに属していたことを示すようです。

その後、突然に私はそのグループを去ることになります。父の仕事の都合で、離れた都市に一家で引っ越すことになったのでした。夏休み前の終業式が、私がその学校に登校する最後の日でした。その朝、母が私に鉛筆の束を持たせてくれました。ぴんとした赤いチェックの包装紙に、一本一本お行儀よく包まれた、クラスメートの数だけの鉛筆。先生に促されて前に立って、なにか挨拶のようなことを言い、そして、その束を皆に渡して、私は去るはずでした。

しかし、学校を終えて帰宅した娘を見て母は驚きます。娘は、その鉛筆の束を丸ごとそのまま持ち帰ってきていたのでした。慌てた母が担任の先生に電話する声を聞いていた私は、その時黙って何を思っていたのでしょう。

私はそれから、大人になるまでにも、大人になってからも、たくさんのグループとの出会いと別れを繰り返し、のちに集団精神療法にも出会いました。自分が得てきたものや置いてきたもの、失ったものや取り戻したものについても、少しずつ、自分の手が届く範囲で確かめられるようになってきたようです。

それでも、その小学校でのことは、特に理由もないままに自分の中に埋もれていました。目立ちたくなくてグズグズしてるうちに、カバンから出しそびれちゃってね、あの時は。幼くて、間が悪かったものだよね。ただ、そう収めていたのでした。

「北九州市立の小学校に一年生の一学期だけ在籍していた私」が、再び輪郭をもつようになったのは、来春に北九州市で開催される第44回学術大会の大会長から運営委員や事務局にお声かけいただいてからのことです。北九州という土地への愛着を出し惜しまない大会長や仲間たちとともに、あれこれ準備に関わりながら、ぎこちない春も夏も過ぎ、秋まできたというのにまだ不慣れですが、この大会運営のグループに入る体験自体が、私をどこか刺激し続けているのだろうと思います。

予想もしていなかったことですが、そのうちにふと思い出されてきたのが、あの鉛筆の束が子供たちに配られる場面を、その後の自分が何度も思い描いていた、という事実でした。転校し、転校生だったことを忘れるくらいになってからも、あのクラスでひとりだけできなかったことがうんと得意になってからも、自分のいない夏休み明けの教室で仲間に配られたはずの鉛筆を、私は幾度となく思い描いていたのでした。

ああそうか、私はあのグループに、居たかったんだ。

本当は、どうしても離れたくなかったんだ。

何十年も経った今になって、まわりの大人の事情についてゆくしかない頃には気づきようがなかったことがすとんと腑に落ちて、そうすると、解凍でもされたように感情の塊が追いついてきました。悲しみなのか寂しさなのか愛惜なのか喜びなのか、すぐには分からないものをこれから私は何重にも理解してゆくのでしょう。

第44回大会のテーマ、「グループとの出会い」。出会いは、未完成のお別れがふっと顔を出して、言葉になっていなかった気持ちを掬うきっかけになることもあるのかもしれません。みなさんには、どんな「グループとの出会い」の体験があるのでしょうか。また、北九州でどんな新しい「グループとの出会い」が待っているのでしょうか。お会いできるのを今から楽しみにしています。

日本集団精神療法学会公式HPコラム 2026年10月

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